戦後の在日朝
朝鮮総連、朝鮮学校は自衛隊に要請してでも排除するべき
戦後から支配され、脅された結果、日本人の税金が盗まれ、日本人が貧しくなってる。
●終戦後 「朝鮮進駐軍」武装部隊が首相官邸襲撃
「朝鮮進駐軍」部隊2000人による「首相官邸襲撃事件」が1946年起きた。約2000人 の在日朝鮮人「朝鮮進駐軍」部隊が完全武装して首相官邸に突入。
日本の警官隊は当時武器の所持は禁じられていため、米軍憲兵隊に応援を頼んだ。
そこで米軍憲兵隊と「朝鮮進駐軍」との間で大銃撃戦闘へと発展した。
戦後の在日朝鮮人は、なんの国際法上の地位もないにも関わらず、勝手に自分たちを「戦勝国民である朝鮮進駐軍」であると詐称し、三万人もの武装集団となって全国主要都市に出現し暴れまくった。
在日朝鮮人集団は、武装解除された日本軍の武器と軍服を盗用して武装し、勝手に「朝鮮進駐軍」と名乗り、無差別に多くの日本人市民を殺害した。 GHQの 記録に残っているだけでも四千人以上の殺害記録が残されている。
戦後の治安が整っていない空白を良いことに、「朝鮮進駐軍」と名乗った在日朝鮮人は、土地の不法略奪、金品略奪、強姦、銀行襲撃、殺略、警察襲撃など暴れ放題の限りを尽くした。
「朝鮮進駐軍」と名乗る暴徒たちは、個々に部隊名を名乗り、各地で縄張りを作り暴れた。 これら「朝鮮進駐軍」 元締め組織が「朝鮮総連」、ヤクザなどになっていった。
国有地も、都心駅前一等地周辺も、軒並み不法占拠した。そしてそのまま、パチンコ屋、飲み屋、風俗店等々が出現し、そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている。
農家、農協倉庫を襲い、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫も襲い、食料や商品を根こそぎ 奪って行き、それらは全て戦後の闇市で売りさばき、暴利で財を成したのは彼らであった。
財を成した彼らは分派し、政治組織として社会主義、共産主義組織へと発展し、政界にも進んだ。
「朝鮮進駐軍」と名乗る在日朝鮮人暴徒たちは、通りすがりの市民に言いがかりをつけ集団暴行をはたらく。無銭飲食は当たり前、白昼に目に付いた婦女子を路上で集団強姦するなどを、日常茶飯事に繰り返した。 在日朝鮮人は「朝鮮進駐軍」部隊と名乗り、武装して、町をのし歩いた。
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩した。 腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を振り回しては、手当たり次第に日本人を殺傷、暴行し、略奪の限りを尽くした。
通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをした。善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。
警官が駆けつけても手も足もでない。 終戦後の警官が、一切の銃器の所持が許されていなかったのをよいことにして、「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」と、丸腰警官を殴り、ド突き回し、警備用の木刀や飾りのサーベルをヘシ曲げた。 戦後当時の「朝鮮進駐軍」は今日の朝鮮総連本部である。
本来、戦争当事国の国民ではあるが、敗戦国民でも戦勝国民でもない第三のカテゴリーの国民という意味であった「三国人」にマイナスイメージが付着したのは、彼らが下記のような事件を続発させたことに原因があります。
これらの事件は、どう考えても内海教授や梶村教授が言うような「精力的な活動」「解放人民として生きていくために不可避なこと」というレベルをはるかに超えており、外国人としての立場を弁えない横暴な行為であると言わざるを得ません。
彼らは事あるごとに「歴史認識の共有」なるものを主張しますが、こういう歴史的事実も共有すべきでしょう。
1945年(昭和20年)8月15日 終戦 (昭和天皇による終戦の詔書(玉音放送))
終戦当時、国内には200万人以上の在日朝鮮、台湾人らいわゆる第三国人が居住していたが、兵庫県内では、大阪、東京についで全体の7%強13万5千人を数えた。一部第三国人の暴動は、天皇の玉音放送のあったわずか数時間の後、国鉄湊川駅の襲撃から始まった。
昭和20年8月15日、日本が降伏しました。
それから間も無く、国鉄深川駅構内の貨物列車を襲撃して、配給物資を略奪。日本全国に滞在していた在日朝鮮人たち(三国人)は、略奪、暴力、婦女暴行(レイプ)を繰り返していました。
三国人は、特攻隊員の特攻服を好んで身につけていました。
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、 腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を引さげていました。
通報を受けて、日本の警察官が現場に行っても、在日朝鮮人たちは、「俺たちは戦勝国民だ、敗戦国のくせに生意気だ」と言って、全く太刀打ちできませんでした。
終戦時、日本国内には、在日朝鮮人と在日台湾人は、約200万人住んでいました。
兵庫県には、日本全国の在日(三国人)のうち、7%に当たる13万5千人が住んでいました。
在日たちは、三国人連盟を日本全国に300箇所作り、テロや略奪を繰り返して、その略奪した品物を闇市で売ってぼろ儲けしていました。
そんな無法地帯と化した神戸の街を救った、ある男がいました。
彼は、昭和20年8月末、人通りもすくない病院の裏手で女の悲鳴を聞きました。
途中で四、五歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた。
「どないしたんや」
「おかあちゃんが、おかあちゃんが」
少女は泣きじゃくりながらその男にしがみついた。
この世のものとは思えぬ女の狂気じみた悲鳴がきこえつづけていた。
「ここにいるんやで。ええな」
男は、少女をその場において一目散に走った。
少女の母親は木立の中で数人の男に犯されていた。
その在日たちは、不敵な笑いを浮かべて、女の手足を押さえつけて、一人が、その女の上に乗っかっていました。
女はひたすら絶叫していました。
「汚ねえ」
男は、その光景を見た瞬間、とっさに目潰しを、相手の在日朝鮮人たちに与えました。
目から血を流しながら、在日たちが逃げ去って行きました。
レイプされていた女性は、ぼろきれのようになって、その場で放心状態になっていました。
「しっかりするんや、わかるか」
と体を揺り動かしても、虚ろな瞳孔を開いたまま、突然けたたましく笑いました。
精神的ショックのために、精神に異常をきたしてしまったのでしょう。
この女性の娘は、遠くからじっとこちらを凝視して立ちすくんでいました。
「許せん!」
男の血は激しく燃えちぎりました。
「このまま、在日たちに神戸の街をのさばらしておいていいのか!報復を恐れて誰も立ち上がらないのなら、俺一人でも立ち上がり、在日の奴らの前に立ちふさがってやろう。私は許せないのだ!」
無法地帯と化した神戸の街を救おうと、男は自警団を組織しました。
そして警察の代わりに神戸の街の治安維持に努めました。
その男の名は、田岡一雄。
のちの山口組三代目組長となる人でした。
参考図書
「山口組三代目 田岡一雄自伝」
もう黙っていられない 「在日韓国・朝鮮人のタブー、朝鮮進駐軍」
山口組三代目 「田岡一雄自伝」 1982年 徳間文庫
玉音放送ののち、今まで同じ日本人として権利を享受してきた 朝鮮人の態度がガラリとかわり、敗戦の責任を日本人とともに背負うのを拒否しだし、それを正当化するために日本人に牙をむきはじめる。
隣組み組織や防空演習等いっしょにやってきて同じ日本人として助け合っていたのに、この変わりように、初め祖父は「冗談だろ?」と思ったらしい。しかし、事は悪夢以上だった。
集団で土地をロープで囲み、バラックを建てていた家族を殺害し占拠する。白昼、商店を襲い、商品を根こそぎ奪いそれを闇市で売りさばく。
バスや列車に無銭で駅員を殴り倒し、どかどか乗り込み、網棚の荷物を外に放り投げ、そこで高いびき。警官狩りをして堂々と殺す等等。祖父曰く「町は彼らの遊び場になった。日本人は逃げ惑うだけになった。
蔡焜燦著『台湾人と日本精神』(2000年、日本教文社)ISBN 453106349X
昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。
我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。
しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。
他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。
日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。
「敗戦の詔勅」が発せられた翌日の8月16日、水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で上陸してくる米兵を迎え撃つべく和歌山に移動するとの伝達があり、四門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。
だが、このときは正直いって心が揺れた。『また行くのか… 』、祖国のために殉ずる気持ちで出征したのだが、いまとなっては”生”への執着が顔を覗かせる。
この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。
『俺達はいったいどうなるのか… 』 『我々は“中国”へ帰るみたいだ』『それなら俺達も一等国の国民じゃないか… 』がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、そんな会話が小声で交わされるのだった。
そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。
そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。
『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』そう言い残して去っていった上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。
昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。
(中略)
昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。 そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。
新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。
私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。
心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。
座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。
それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。ただ黙って見ているしかなかったのである。
(中略)
佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩をいからせていた朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。
弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。なんとなくいい気がしない。とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった地政学的な環境が、そうした一個の民族性を育んだのだから、いまさらそれを責めても仕方なかろう。
こういった真実は現代のマスコミでは完全なタブーとなっている。著名な駐日大使ライシャワーの「日本史」でも戦後の朝鮮人の横暴は記載されていたが、たった1行書かれていただけなのに在日や左翼の抗議が殺到したという。
現代を生きる日本人の皆さん、日本人が終戦を迎えたときに韓国・朝鮮人に何をやられたのかよ~く心に刻んでください。
強い者には事大し、衰えると手のひらを返して残酷なまでの裏切りをする、それが韓国・朝鮮人です。有史以来、ずっとこの繰り返しです。決して心を許してはならない民族なのです。
そして、都合の悪いことは力で封じようと躍起になります。自分達が悪いことをしても罪の意識が無いのです。都合が悪いことは全て他人のせいにして、己の非は決して認めようとしません。
そんな大げさなと思うかもしれませんが、普段挨拶程度の付き合いならわかりにくいかもしれませんが、利害が絡めば途端に民族性が露になります。
まともな人間もいますが、その人たちの身内までがまともとは限りません。だからこそ、彼らと対峙する時は慎重でなければなりません。もし、朝鮮民族がまともな人たちの集団であれば、自分達がやったことを棚に上げて一方的に日本人を悪者にはしていません。自らの罪をきちんと認め日本人被害者にそれなりの謝罪と償いをしているはずです。
それが戦後63年経つ今でも清算されず放置されたままです。今後も韓国・朝鮮人が変わることはないでしょう。日本人はそろそろ朝鮮民族と決別するべきです。
土地も物資も女性の体も片っ端から奪い放題であった。
今、朝鮮人がパチンコ屋や焼肉屋を営業している駅前の一等地は、皆あの時奪われた被害者達の土地だ。』 高山正之
米国GHQが犯罪として処理した在日朝鮮人は1947年から1950年までの4年間で、
米国GHQ参謀第二部公安課の資料
殺人532件、
強盗4,124件、
放火57件、
強姦224件、
傷害17,552件、
窃盗44,494件など
合計104,055件の犯罪が記録されています。
これほど邪悪で下劣な人種が我が国やすぐ近くにいることが日本の悲劇である。
そういったのが福沢諭吉だった。
終戦直後、こうしたアジアの歴史をまったく知らなかったマッカーサー率いる米軍やアメリカの指導者のせいで、我が国は今のような「悲劇の国家」となったのである。
高山正之氏「・・・先ほどGHQの洗脳というか、いわゆる韓国・朝鮮問題っていうのは、一番根源にあるのはそこだ。先ほどGHQと言ったが、一番最初に動き出したのはルーズベルトのカイロ会談。
アメリカは『日本は侵略国家だ、残虐な国だ。東南アジアで残虐行為を繰り返す』とか言ってるが、残虐さっていうのはもともとアメリカが持っていたもので、日本を批難するに値、、、まぁ仮に日本がやってたとしても。
そこの残虐さについてはシナ人と一緒になって南京大虐殺みたいなのを、こうでっち上げていきゃいい。
ただ、1つだけアメリカとしてどーしてもアメリカ人が日本に敵わないものは奴隷。奴隷と差別。
日本では、奴隷は制度になったことが一度もない。それがアメリカにとって非常にウィークポイント。日本を倫理的に批難するにあたって物凄く弱い。
それでルーズベルトは何を言い出したか。カイロ会談で『日本は朝鮮半島を奴隷化している。朝鮮人を奴隷にして搾取している。』 これまったく根拠がない。
根拠はないけど、彼がそういう発言をカイロでやった。
それからルーズベルトの記録を見ると、繰り返しそれをやっている。
例えば、ヘレン・ミラーズの本なんか見ても、44年の終戦の前の年の、カイロ会談の翌年の8月、『アジア人は日本の奴隷になりたくない』とかいう公式発言をボコボコやっている。
で、これを踏まえて、その日本の占領統治政策が行われるんだけど、その時に日本にいる在日朝鮮人に何を言ったかというと『今日、奴隷解放の日だ』と。『朝鮮人が解放された日』だと。
それを受けてマッカーサーが日本に来て、厚木に降り立って1か月後に、在日本朝鮮人連盟 という、今の民団・総連の母体がGHQの指導の下で結成された。
その結成趣旨が『朝鮮人は奴隷から解放された』『今や我々は連合国民だ』『戦勝国民だ』と言い出した。
で、奴隷扱いした日本に対して、『奴隷扱いしたのを十分に理解させるのが我々の義務だ』と朝鮮人連盟が。
それを追認するように、マッカーサーは日本の新聞なんかに連合国人について、つい最近も、サンフランシスコ講和条約の後も、米兵の犯罪について裁判権を放棄させられたっていう密約が出てきたと各紙載って騒いでいたが、
あれと同じで、逮捕権も裁判権も連合国の兵隊なんかには一切、日本人は持たない。新聞コードでもそういう連合国人を批判するのは書いちゃいかんというのがある。それを9月の段階でもう既にプレスコードに要求している。要求って言うかまぁ日本は呑まざるを得ないんだけど。
で、その翌々月にその連合国人に対する扱いは、朝鮮人にも与えるってことだと。
これはもうハッキリGHQで出している。戦勝国民扱いをしろと。それから新聞で叩いちゃいけない。それから裁判権もない。
それで何が起きたかって言うと、もう有名なのでは直江津事件 。
これはヤミ米を、、信越線、満員電車に窓を割って入ろうとした朝鮮人を乗客が注意した。彼らは『この野郎』と言って、直江津駅に着いたら、その注意した日本人をホームに引き出して、皆が見ている前でスコップで殴り殺した。
もっと有名なのは浜松事件 。
これは浜松で朝鮮人が全てのヤミマーケットを握って、それに警察が介入したら逆に警官を人質にとって、殴り殺しにし始めた。それでそこにいたのが関東霊岸島一家小野組という任侠の徒。 これは警察が手を出せない 。警察官はパクられている、やられているので、小野組が立ち上がって彼らを救出した。
これを発端にして、あの浜松の街の真ん中で天満町で5日間市街戦があって、3百何人の死傷者が出た。
こんな事、日本の歴史にも載らないし、新聞も報道しないわけだ。
この時はさすがに炊きつけたアメリカは、日本はとにかく朝鮮人を奴隷にしたんだから、解放して、解放後の奴隷が少々跳ね上がっても黙認していた。だけどここまでやるかということで、結局MPが出て処理した。
でも、日本は奴隷扱いしたと言うんで、ありもしない強制連行とか口実にして、特別永住権というのを彼らに与えた。
日本はなくてもいい、奴隷扱いしたみたいな格好で、歴史を引きずらされている。結局全ての根源がそこにある。
今、在日の参政権要求も『強制連行して連れてきたんじゃないか』と『こっちに住んでいるオレたちにそれくらいやるべきだ』という贖罪を訴えているわけだ。
で、メディアはさ、浜松事件・直江津事件なんて調べてみれば分かる。あと坂町事件。
これはヤミ米を全部、、拠点にしていたのは坂町ってとこで、警官が袋叩きにされているわけ。
それから富坂署事件、、富坂署だとか生田署 にみんな朝鮮人が殴りこみかけている。
生田署事件で『この野郎!』ってやったのが田岡一雄。昔は本当に任侠の徒だった。今は逆転しちゃったけどね。中に在日が入っちゃっておかしくなってるけど。
こういう背景を全く知らないままで、今の現状の在日の参政権問題なんか考えたらとんでもない事になる。
我々はそういう格好でGHQじゃなくてアメリカ自体が、自分達が奴隷問題をひっ下げて、日本を黙らせるためにデッチ上げた朝鮮半島奴隷化論みたいな押し付けがあった。
戦後の朝鮮問題って全てこれが根っこにある。
だから日韓交渉を見ると、向こうの言い分はGHQが創った作文そのもの。
長い間植民地支配して・・・という件。
こっちは持ち出しして鉄道敷いて、電気通したり、久保田貫一郎 が言ってるけど、相当やっているのにありがとうでもなくて、彼らは今でもその思いに乗っかって、誤解の上に乗っかって日本にいろんな要求している。それをやっぱり踏まえて、今の韓流を見て欲しいと思う。
水島氏「そうですよね、仰るとおりで、つい最近産経新聞で山口組組長のインタビューが出ていたが、今、山口組は朝鮮・韓国人が多いみたいだが、最初の田岡氏は東映の映画なんかにもある。『山口組三代目』という映画見ると、朝鮮人が暴れているのを田岡さんが先頭になって抑えるみたいな、、」
高山氏「そんなの山ほどある。神戸はあの時、田岡が立ち上がって、朝鮮人が駅前を取っちゃった。ビルを襲撃して。手榴弾まで使ってんだよね。」
但馬氏「だから日本軍の武器庫からかっぱらって、、」(激論 編集長)
高山氏「それを持ってきてるんだけどね。ところが東京ではそういう霊岸島一家みたいなのがいなかったから、有楽町駅前・新橋・渋谷・新宿・・全部駅前取られちゃった。」
水島氏「そうですね。そういうことを踏まえると、今、例えば新宿見るとほとんど警察も手が届かなくなってる。歌舞伎町は前よりもっと凄くなってる。
別にヤクザが良いって訳じゃないけど、日本のヤクザは一応警察とある程度折り合いつけることが出来たけど、今はコントロールが全く効かない状態を見ると、
ご指摘の戦後直後にあった事と、今、韓流に対する危険というのが非常に良く分かる。」
高山氏「例えば浜松事件の時は、その死傷者出して朝鮮人と戦った小野組に対して、浜松市の市民から義捐金が出ている。『ご苦労さんでした』って。それがいいか悪いかは、、(笑)
それはなんで警察が介入しないの。富坂署になんで殴りこみかけられるの。それからもっとヒドイのは、下山(総裁)事件 。
下山総裁が飛び込み自殺するんだけど。睾丸破裂があって、、これは生前に暴行を受けたって古畑インチキ教授が判定下したが、あれをやったのが三国人。
あれは東京駅で彼は国鉄の旅客局長で、列車にここは『朝鮮人専用』『台湾人専用』って書くと、日本人が乗れなかった。
それを混んでるときに止めさせたら、頭来たの(三国人)が、旅客局長が殴りこみをかけて、袋叩き・半死半生にした残り傷が、何年後かの下山事件の時の鑑定を狂わせた。・・・・」
但馬氏「あと阪神教育事件 ってありましたよね」
高山氏「おお、そんなの探せば山ほどある」
「で、結局フジテレビ・・・・」
戦後、朝鮮人犯罪のニュースがない日はなく、朝鮮人=犯罪者であり、朝鮮人であることを隠す為に通名(4千ほどある)を使うようになった。このような犯罪朝鮮人が通名(偽名)で帰化し、天皇陛下の臣民として日本人を詐称してのうのうと暮らしている。認められるわけがないのだ。歴史は繰り返す。朝鮮人の悪行を忘れるな!日本人全員が知るべきだ。
(最初は朝鮮総連の会員は在日の7~8割を占めていました。北の失墜とともに韓国籍への切り替えが急増し、拉致を北朝鮮が認めたことが追い打ちとなり今に至ります。すなわち帰化している朝鮮系の日本人の7割以上が北朝鮮籍でありながら韓国の離脱証明で帰化したと言うことになります。)
TVメディアは政治を歪め国民に信じ込ませてきた
朝鮮進駐軍、在日韓国人は密入国者の末裔
1951【昭和26年03月22日衆議院法務委員会】
【押谷委員】
お尋ねをいたしますことは、昨朝起りました朝鮮人による米兵に対する暴行事件であります。
昨二十一日の午前三時半ごろに、浅草の千束町の朝鮮マーケット附近におきまして、六名の米兵が多数の鮮人に取囲まれまして、集団的に暴力を加えられて、一名は死亡する、二名は負傷する、自動車も破壞されるというような不祥事を起したのでありますが、わが国の講和を前に控えて、今日日本の置かれたる国際的地位などから考え、この時期を思いまするときに、まことに遺憾しごくな事件だと考えます。
第三国人の由来
終戦後の第三国人どもは本当に酷かった。軍の兵器を盗んで来たらしく、三八式歩兵銃や南部式拳銃で武装し、小銃には着剣して強盗強姦傷害恐喝脅迫不動産窃盗、時には殺人まで、経済犯、実力犯を中心にあらゆる悪事を重ねていた。
銀座、浅草、新宿は朝鮮人、新橋、渋谷は台湾人に支配され、政府も警察も動揺し、手を拱いていた。戦勝国民は治外法権だったのである。
だから食管法に限らず、戦勝国民には日本法を適用出来なかった。服部時計店や白木屋も米軍の酒歩(PX)に接収され、そこへ行けば食料に限らず物資は山ほどあった。日本人は買えなかったが。
そうした情勢に便乗し、朝鮮人は戦勝国民だの「朝鮮進駐軍」を僭称して堂々と闇商売を行い、派手に稼いでいた。
そりゃ儲かるだろう。警察の検問を竹槍日本刀を振り回して強行突破したのだから(さすがに銃撃戦は挑まなかった模様)。
当時は物不足で、売る方は素人でも出来た。仕入れこそ難しかった。
彼等は日本人露天商を襲って商品を奪う。
それで警察が黙認して捕まえないのだから、こりゃあ損のしようが無い。警察が襲撃されることしきりで、署長が叩きのめされたり、捜査主任が手錠を賭けられ半殺しにされるぐらいは珍しからず。
上野で朝鮮人経営の焼肉屋へ国税局査察部が査察に行った際、大金庫を開けて手を入れた瞬間を狙って二十人ぐらいで一斉に金庫の扉を押したものだから査察官は腕を切断されてしまった。
当時は警察署が襲撃される事が珍しくなく、第三国人の襲来によって犯人を奪還された富坂警察署事件、ついでに警官が殺された渋谷警察署事件、共産党が大群で警察署を包囲し外部との連絡を遮断「攻城戦」に出た平警察署事件等、枚挙に暇有りませんでした。
東京東部(すなはち大東京の中心地)北郊の荒川、古利根-中川、江戸川、利根川流域の牛は皆いなくなった。
当時、あの辺は畜力として農耕牛を使っていたが、深夜、不良朝鮮人が侵入して来て盗み出し、河原へひいて行って屠殺した。牛はモウと言って泣いたので皆気付いたが、銃砲刀剣で武装しているので追う訳には行かなかった。
永年愛育し、慈しんで来た牛が悲しそうに泣きながらズルズル引き出され殺されるのを傍観するのは無念で耐え難かったが、手向へば殺されるのでどうにも出来なかった。
そうして利根川水系流域一帯の牛は皆、不良朝鮮人に盗まれ、殺され、闇市で売られた。
この辺へも、新聞紙に包んだ肉塊を売りに来たものだ。上流で屠殺した牛を、そのまま下流へ売りに来たのだろう。かくて南関東から、牛はいなくなった。
家畜相手ならまだしも、人間に対しても、関東以西の大都市を中心に、日本中に灰神楽が立つような勢で数多犯罪を重ねた。川崎、浜松、大阪、神戸などが酷かった。その最も著しい象徴的事例に、元文部大臣、後の首相・鳩山一郎氏に対する集団暴行・傷害事件がある。
翁が軽井沢の静養先から帰京しようとして信越本線の汽車に乗っていたら、例の「朝鮮進駐軍」が後から大勢、切符も買はず、鉄道員を突き飛ばし押入って来て、「俺達は戦勝国民だ、おまえら被支配者の敗戦国民が座って支配者様を立たせるとは生意気だ、この車両は朝鮮進駐軍が接収するから全員立って他の車両へ移動しろ、愚図愚図するな!」と追い立てた。
それで鳩山氏が、我々はきちんと切符を買って座っているのにそりゃおかしい、と一乗客として穏やかに抗議したら、たちまち大勢飛び掛かって袋叩きにし、鳩山翁を半殺しにした。幸にして重体にも重傷にも至らなかったが、頭部裂傷だか顔面挫傷だか忘れたが、血に塗れ腫れ上がった痛々しい顔で帰京した。
年老いた祖父を理不尽に叩きのめされて怨まぬ孫も有るまい、いかに不出来な孫にせよ。孫共はこれを知らんのだろう。
直後に総理大臣に成る程の大物でもかくのごとし。いわんや庶民におては 土地も屋敷も物資も操も、奪い放題であった。
闇、賭博、傷害、強盗事件が多く、ことには、空襲や疎開で一時的に空いている土地が片端から強奪された。
今、朝鮮人が駅前の一等地でパチンコ屋や焼肉屋を営業しているのは、皆、あの時奪った被災者の土地だ。
それでも警察は手が出せなかった。歴代首相大臣等が絞首刑になって行く状況で、警察ごときに何が出来よう。
ある日、警察は何月何日を以て廃止す、再び登庁するを許さず、と命ぜられれば、それ切り警察は消滅する。
七百万の大軍を擁した彼の帝国陸海軍ですら、左様にして両総長 両大臣以下、自然廃官になった。まこと敗戦は悲しからずや。
たまりかねた警察が密かにやくざに頼み込み「浜松大戦争」になった訳だが、「小戦争」は日本中に頻発した。
最後の頼みの綱は連合国軍であったが、遂にはその憲兵隊でも手に負へぬ非常事態に立ち至った。
それでさすがに米軍も腹に据えかね、日本本土全域の占領を担当していた
米第八軍司令官アイケルバーガー中将が、関東と言はず関西と言はず、はたまた北九州と言はず、不良朝鮮人活動地域に正規戦闘部隊の大軍を出動させ、街頭に布陣して簡易陣地を築き、重装甲車両を並べ、人の背丈程に大きな重機関銃を構へて不良朝鮮人共にピタリと狙いをつけ、ようやく鎮圧した。我々はその火器のきらめきを間近に見た。
この時、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサー元帥の発した布告が、「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と言い声名で、これぞ「第三国人」なる語のおこりである。
だから、外国人差別用語なはずは無い。彼等自身、マッカーサー元帥以下、一人残らず皆、外国人ではないか。
連合国軍総司令官は、日本人に対してこそ絶大な権勢を振ったが、本国や同盟国、対日理事会や極東委員会に気を使わねばならぬ外交センスの要る役職であった。
何人にもせよ、敗戦国民以外を、声名発してまで差別なんぞする筈が無い。
「第三国人」の語は、国際法に則って説いた技術的専門用語に過ぎない。
終戦後の朝鮮人の横暴は目に余るものであった。
東京のど真ん中、銀座の交番に於いてさえ、朝鮮人を注意した巡査が複数の朝鮮人の襲撃を受け裸にされ警棒を尻に突っ込まれると言う乱暴を受けた。
当時の日本警察は拳銃の携帯が許されておらず、朝鮮人の横暴を止められなかった為、政府はマッカーサーに請願した。
これを受けて述べたのが、マッカーサーの「朝鮮人は戦勝国ではない第三者だ」と言う三国人発言である。
1950年にGHQは日本占領を終結し、解放し、実質的に戦後は終わったとされています。
その際に朝鮮人は日本籍を剥奪され、韓国籍として朝鮮に帰れと命令しました。
不要の朝鮮学校と民団総連も廃止し解散請求しました。
すると在日朝鮮人は、なにを履き違えたか「我々は先勝国民であり日本を統治する立場だ」と叫びだし、革命を叫んで、公共施設の不法占拠し火炎瓶や武器で武装して決起したのです。
警察も拳銃で対抗し射殺された人も出ました。
警察では対処できなくなり、GHQは軍隊の動員をして戦後初の戒厳令を敷いて朝鮮人による暴動を平定しました。
この戦後初の戒厳令が敷かれた朝鮮人動乱(正式名がない)事件は、日本の歴史からスッポリ抜けています。
死人も出ている事件なのに、日本の教科書には掲載されたことはありません。
(日本各地で勃発しました、栃木や浅草などは戦場状態です)
逆に朝鮮民族学校の教科書には差別と弾圧として掲載され教育されています。
勿論、被害者側としてであり、立ち上がったのは国籍条項と朝鮮民族学校の廃校に対する抗議としてであると述べています。
日本人として、在日朝鮮人への危機感は常に持つべきですね。
言っておくが日本国内だけではない。
朝鮮半島を朝鮮を近代化させて、恩あるはずの我ら先人の日本人を集団で襲って、強姦強盗不動産窃盗と悪の限りを尽したのを皆忘れてしまったのか。
多くの日本人は、朝鮮人に襲われ、無念にも命を落とし、帰れなかった人は数知れない。
彼らの悔しさを思うと、日本人の敵朝鮮人に参政権という言葉は決して出てこないはずである。
このことを誰も伝えようとしないが、事実は決して消える物ではない。
朝鮮人の日本人に対する犯罪は、触れては成らない理由があるのか不思議な日本人達だ。
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在日の戦後の悪行集詳細
当時の在日コリアの検挙率の異常な高さ
「在日朝鮮人に関する総合調査研究」 朴在一 新紀元社 1957年
15~59歳の男女人口を犯罪年齢人口とすると、刑法犯、特別法犯の検挙人員は合計3万7276人(1949年)であるから、在日朝鮮人の成年男女の100人のうち、14.4人が検挙されたことになる。外国人登録法違反による被検挙者数まで入れると、この数字はもっと増えて100人当たり20.2人になる。
このほかに道路交通法違反による検挙者1万9332人もいる。それ故に大都市警察の留置所が、何時でも朝鮮人で一杯であるという事も否定し得ない悲しむべき事実であろう。
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●日本人から略奪した物資を売りさばき開店資金を工面
いま全国に約一万八千軒あるパチンコ店のうち、在日および帰化者二世・三世を含む)が経営する店の割合は、六割とも七割とも言われる。
三軒に二軒は、オーナーが韓国・朝鮮系ということなのである。
パチンコ台の製造メーカーにも、最大手の「平和」を筆頭に、韓国・朝鮮系の経営者が名を連ねている。
(中略)
パチンコが全国に広まり大衆的な人気を博するのは、明らかに日本の敗戦直後からである。
身近に安価な娯楽がなかったためという理由ばかりではない。
焼け跡闇市の時代の庶民を何よりも魅了したのは、景品に出されるタバコだった。
配給制で常に不足がちなタバコが、強力な呼び水となって、戦後最初のパチンコ・ブームを巻き起こしたのである。
かくしてパチンコ店は雨後の筍のように増えていくのだが、当時、開店資金をどのようにして工面したのか、その経緯が在日自身の口からおおやけにされることも、私の知るかぎり絶無と言ってよかった。
『こんなことを話す人間は、ほかにおらんだろうね』 と前置きして、キムが語る。
『闇市で儲けて、それからパチンコ(店経営)に走った人が多いんですよ。じゃあ闇市で何をして儲けたかというと、結局、ヒロポンと贓物故買(ぞうぶつこばい)(贓物故買=窃盗、詐欺などの犯罪行為によって不正に得た物品を売買すること)だよね』
密造した覚醒剤を売りさばいたり、盗品の横流しをしたりして、短期間のうちに大金を作り、それをパチンコ店開業に振り向けたというのである。
『そういううしろ暗い過去がなかったら、カネなんていうものはそんなに貯まらんですよ。うしろ暗い過去があるから、人にも言われんわけでね』
(中略)
戦争直後、韓国・朝鮮人がいくらかの元手ができるとすぐパチンコ店経営に乗り出したのは、日銭が確実に入り、その額がほかの廃品回収や焼肉といった職業よりも格段によかったからである。一日の売り上げだけを見ても、数字のゼロが一つかニつ多かったのだ。
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(「コリアン世界の旅」 野村進 1996年 講談社 より)
●なぜ日本にだけパチンコ屋があるのか?
今から70年ほど前、日韓併合後に朝鮮人は自らの意思で日本に渡ってきた。その後日本は第二次世界大戦で連合国(米・英・オランダ・支那・オーストラリア)と戦争に突入。
英・オランダ・支那・オーストラリアには勝ったものの米に敗北し、ポツダム宣言を受け入れ連合国に降伏した。すると朝鮮人たちは「我々は戦勝国民」であると主張し、「朝鮮進駐軍」を名乗り、各地で暴れ始めた。
日本の男たちは戦場に駆り出され、残っていたのは女、子供、老人ばかり。朝鮮人はやりたい放題で、駅前の一等地は朝鮮人に襲撃され占領された。
もちろん、そこに住んでいた日本人女性は容赦なく強姦され追放されたのです。
当然、日本人は朝鮮人を強く憎むようになった。そのため、在日朝鮮人は日本名を名乗るようになった。
朝鮮名を名乗ることは自分が犯罪者だと宣言しているようなものだったからだ。その後、朝鮮人達は共産主義者と組み、マスコミを使って歴史の捏造を始めた。
「強制連行されて来た」「土地を奪われて仕方なく来た」等など。そして強姦・殺人犯罪を謝罪するどころか、土地を占拠し続けながら、「俺たちは何も悪いことをしていないのに差別される」「不当な差別を受けている」などと宣伝し始めた。
「三国人」を知らない若い世代の日本人たちは在日に対して、罪悪感を持つようになった。そして在日たちは日本人から奪い取った一等地で商売を始めた。それがパチンコである。
今でもパチンコ業界の8割が在日が経営者である。パチンコ業界は今や30兆円産業と言われている。なんとあの日本が誇る自動車産業より上なのだ。だが自動車産業とは違いこのパチンコ業界は、日本が誇るどころか日本が恥ずべき業界なのだ。
なぜならパチンコ業界は経営者の脱税と、北朝鮮への不正送金・犯罪の温床など日本人にとって極めて不利益になる事ばかりをしている。
「日本のパチンコがある限り我が国は安泰だ。」(金正日)日本の政治家や警察にもパチンコの金が流れている。だから「パチンコ・パチスロはギャンブルではない娯楽だ。」などという、馬鹿げた論理がまかり通っているのだ。
しかし祖母や曾祖母が朝鮮人に強姦された場所で、今の奴らはパチンコやスロットを打つとは・・・・・。これは「日本人」以前に「人間」として恥ずべき行為ではないのか?在日朝鮮人が経営するパチンコ屋が駅前に多いのではなくて、パチンコ関係の会社の経営者は在日朝鮮人が殆どです。
それぞれの企業の代表者を調べれば中国式(朝鮮式)の名前です。名前が日本風であっても通名である場合もあります。そしてその他の風俗店、焼肉屋などにも多いです。
なぜ強制的に連れて来られたと騙っている彼らが、差別が酷かったと騙りながらも、今のように駅前で莫大な富を生み出す違法な賭博場を開けるまでになったのでしょうか…。
終戦直後、駅前には闇市が出来上がり商売に適した場となりました。当時、自分達を三国人と称して、自分達には治外法権が認められていると勘違いし、日本の闇市を席巻していたのは朝鮮半島出身者達でした。
彼らは「在日朝鮮人連盟」という自治団体を結成し、その組織の力をバックにやりたい事をやりまくりました。警察署でさえ武器を手に持ち押し入って、留置所から仲間を連れ出すことさえやってのけました。(全ての朝鮮人がそうであったとは言いません。しかし、同胞の不正に目を瞑っているというのは酷い事です。)
他の方も書いておられますが、悲しい事にこの勢力に対抗できるのはヤクザしかいませんでした。この事を、今のマスコミも教科書も伝えませんが、こんな酷い話を載せる事を編集者は怖がります。
それが元で憎悪が広がりかねませんから。そしてマスコミも教科書もこの事を書けないのは、常に朝鮮系の圧力団体(朝鮮総聯や韓国民潭)や政治的な圧力団体からの圧力があるからです。教科書などはいつも圧力団体の抗議にさらされていますね。
台湾人の朝鮮進駐軍の証言
「お前等四等国民の日本人が我々二等国民である朝鮮進駐軍に指図するとは生意気な」
台湾出身の蔡焜燦(さい こんさん)は昭和20年(1945年)12月に台湾へ帰還することになりました。
引き揚げ列車に乗ると朝鮮人が威張り散らしていたといいます。
蔡焜燦氏は日本の軍服を着ていました。
座席の下に置いていた新品の飯盒が朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると「なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い」と、たちまち数人に取り囲まれてしまいます。
勝ち目はないので、「すみません、私の記憶違いでした」と謝り、難を逃れるしかありませんでした。
佐世保にいくまでの30時間、朝鮮人たちは蔡焜燦氏を含め、日本人乗客をいびり続け、若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなどの横暴を続けていました。
同氏は、はらわたが煮えくり返る思いで眺めていたといいます。
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朝鮮進駐軍の非道横暴
朝鮮人の横暴はエスカレートし、闇市に進出し、旧軍の倉庫から奪った自動小銃で武装し始めます。
こうなってくると警察もお手上げで軍隊は解散しており、阻止できる武力はなく、強盗、放火、土地の不法占拠、強姦とやりたい放題です。GHQはある程度黙認しています。民族間を争わせてその上に君臨するという白人のデバイドアンドルール手法です。
昭和21年10月に組織された在日朝鮮人連盟は極左暴力組織へと変貌していきます。
そして日本共産党の指導により労働争議への介入、交番焼き討ちなどのテロ行為を行っていきます。
昭和23年にはGHQの指示により文部省が在日朝鮮人にも教育基本法に基づく教育を指導したところ、民族弾圧として大阪府庁、兵庫県庁に突入し、破壊行為を行い、翌年、暴力主義団体の指定をうけて解散となります。
しかし、この残党は日本共産党に利用され、朝鮮戦争勃発後、昭和27年にに皇居前にデモ隊を突入させます。(約半数が朝鮮人) 朝鮮半島への軍事輸送拠点をデモ隊が襲う事件もおこっています。
朝鮮戦争勃発により国内の米軍を補完する目的で誕生した昭和25年の警察予備隊(昭和27年保安隊、後自衛隊)はこれらの共産党、および朝鮮人の動きとは無関係ではないでしょう。
そして、これらの朝鮮人組織は現在、民団(在日本大韓民国民団)と総連(在日本朝鮮人総聯合会)に至っています。
陸だけでなく海でも日本の漁船は韓国の警備艦艇によって拿捕され抑留されています。233隻2,791人に及びます。抑留生活は奴隷的扱いであり長い人で3年に及びました。
現在ではこれらの事実は封印され、朝鮮人とそれを利用する者たちにより、「従軍慰安婦」「強制連行」が捏造され、被害者ビジネス、差別ビジネスが展開され、これらの利権に政治家が巣食っています。
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もう黙っていられない 三国人の不法行為、何を批判されたのか
「韓国・朝鮮と日本人」若槻泰雄 89年 原書房
戦前から強かった日本人の在日朝鮮人への悪感情は、第二次大戦直後の経験によって更に強まった。それは、日本人が敗戦の苦悩と屈辱に打ちしおれていたとき、在日朝鮮人による犯罪、不法行為が続発したことであった。
もともと戦前から在日朝鮮人の犯罪率は日本人の平均の10倍前後に達し、朝鮮人の住む貧民窟が犯罪の巣であるかのように見なされていた。
(中略)
続発した不法行為
総人口わずか1%以下の在日朝鮮人の公務執行妨害は21%(1949年)、騒擾(そうじょう=不平分子が集まり騒いで社会の秩序を乱すこと『騒擾罪』 )のごときは83%(1948年)、そして密造酒は全密造酒の30%近く(1953,54年)、ことに覚醒剤の販売量では全量の60~70%を占めるという有様であった。(1953,54年)
公安調査庁坪井豊吉氏は、終戦後間もない頃の在日朝鮮人の犯罪状況について『法務研究』に次のように書いてある。
『本期における大きな傾向としては、個人的感情にもとづく報復的詐欺、脅迫、暴行などの一般犯罪のほか、いわゆる親日派民族反逆者への監禁、暴行、あるいは・・・・・帰国問題に起因する不穏行動、各地の保安隊、警備隊(朝連の自衛組織)などの警察類似行為、主食の集団要求や買出し、彼ら同士の派閥抗争などがみられた・・・・・またそれらの中の主な事件は、各地における集団強窃盗、官公署への横暴な態度と不当な要求、建築物の不法占拠、汽車、電車、バスなどの不法乗車、生産管理、人民裁判などであった・・・・・。彼らの不法行為は、敗戦による日本側当局の無気力と消極的な処置に乗じてやたらと増長され、戦後の混乱をいっそう助長するところとなった・・・・・敗戦の混乱におびえるに日本の一般社会人心は極度に不安な環境におちいり、一時は全く無警察状態が各方面に現出された。彼らの不法行為が、一般日本人はもちろん、在留外国人の間にまでも、彼らの性格が事大主義で、遵法精神が薄く、感情的で、極端な凶暴性をもっているとの深い印象を植え付けたことだけは、まぎれもない事実のようである。この時代は、特にその初期は右翼と称される民団(在日朝鮮居留民団→大韓民国居留民団)、建青(朝鮮建設促進青年同盟)などによっても数々の不法行為が敢行されていた・・・・・』
「在日朝鮮人に関する総合調査研究」新紀元社 1957年 朴在一
成年人口の20%の被検挙者(終戦直後)
『15~59歳の男女人口を犯罪年齢人口とすると、刑法犯、特別法犯の検挙人員は合計3万7276人(1949年)であるから、在日朝鮮人の成年男女の100人のうち、14.4人が検挙されたことになる。
外国人登録法違反による被検挙者数まで入れると、この数字はもっと増えて100人当たり20.2人になる。このほかに道路交通法違反による検挙者1万9332人もいる。それ故に大都市警察の留置所が、何時でも朝鮮人で一杯であるという事も否定し得ない悲しむべき事実であろう』
今日ではこのような事態は著しく改善されたが、それでも、全在留外国人の中における韓国・朝鮮人の犯罪の人口比は平均より幾分高いのを常としている。一般犯罪のほかに、韓国人には、密入国者が多数にのぼるのが特徴である。
不法人国による年間数千名にもおよぶ検挙者は、一時、長崎県の大村収容所に収容して本国に退去強制となるわけだが、必死の思いで密入国した彼らの抵抗はすさまじく、大村収容所でのトラブルは絶えなかった。
「体験で語る解放後の在日朝鮮人運動」 張錠寿、他 1989年 神戸学生青年センター出版部
あの時代は、日本国内を汽車で行こうとすると汽車の乗車券を購入するのに証明が要ったんです。隣組とか駐在所とか役場とかで貰って、汽車に乗って買い出しに行ったんですが、そんな時に台湾人が汽車でも「中国人専用」とチョークで書くんですね。
すると朝鮮人もまねて「朝鮮人専用」と書く。そんなことをして買い出しに行ったりしていました。買い出しは、新潟とか北陸、九州に行って米や芋やいろいろなもんを買って、専用車に積んで守らないかんわけです。
「興安丸 33年の航跡」 森下研 昭和62年 新潮社
(終戦から間もないこの時期、食料不足が極度に悪化していた)しかし金さえあれば食料は、上原(駅員)のいる博多港駅近く、わずか200メートルほどのところにも溢れていた。
石堂川の川口には引込み線の鉄橋があるが、そこから上流へかけ岸側の水の上に、バラックが連なっている。小屋はいずれも川底に打ち込んだ杭の上に建てられていて、住むのは韓国人たちだ。
ここには、米はもちろん魚や缶詰など、当時の日本で手にいれることのできる食品は何でもあった。上原たちが普通ではまず口にすることもできない牛肉さえ、ふんだんに、かつ安く売られている。
夜、どこからともなく引いてこられた牛が、翌朝までには解体され、角つきの頭などが小屋の中でぐつぐつ煮られていたりする。牛は、たいていが近郊の農家から盗み出し、売られたものだが、この一角には警察官も容易に立ち入れない雰囲気があった。
(朝鮮へ引き揚げる船に乗るために)敗戦とともに博多へ集まってきた韓国人たちは最初の頃、少しでも港近くにいたいと博多港駅を半ば占拠する形で船を待った。彼らは駅舎の板壁をはがして煮炊きするなどの傍若無人ぶりだったが、上原たちはどうすることもできないでいた。
やがてアメリカ軍が進駐し、また引揚援護局が設けられるにしたがい、韓国人たちは近くの寺院などへ分宿するようになった。そのうち、目はしのきいた者たちが川沿いに住みつき、一種の租界をつくって商売を始めたのである。これが、興安丸(引揚船)がきたころの博多港界隈の状況だった。
韓国人たちはまた、ブラックマーケットなどで稼いだ金を、独特の方法で持ち帰る者が多かった。彼らの中には、古い自転車を担いで乗船する者がよくいた。本来なら自転車は、小荷物として船倉に積まなければならない。
それより自転車などを肩にしてタラップを登れば、転落の危険がある。ところが、そういって乗組員や立会いの警察官が制止しようとすると、誰もが、『おまえ、おれの財産を盗む気か』などと血相を変えてくってかかる。
それはじきに周囲の者たちに広がって騒ぎになり、かけつけたMP(進駐軍憲兵)が自動小銃を空にむけて威嚇射撃するまでおさまらない。アメリカ軍の進駐以来、港や引き揚げ船にはMPが警備のため配置され、また乗船するようになっていた。
韓国人たちが古自転車にこだわるのには、訳があった。操舵手の中野正助は戦前の関釜(下関―釜山間の連絡船会社)に入り19年に応召、復員してこの年から興安丸に再勤務を始めた。博多港で韓国人たちの乗船整理をしていたとき、その一人が自転車を海に落とすのを目撃する。
『船員さん、あの自転車を揚げてくれ!』男は、半狂乱になって叫ぶ。『とても無理だ』
中野が首を振ると、男はやにわにタラップから海へ飛び込みかける。それをようやくなだめて話を聞くと、自転車のタイヤには、チューブの代りに紙幣がぎっしり巻き込んであったのだという。(日本引き揚げに際し、GHQにより一人当りの持ち帰り金額が千円までに制限されていた。朝鮮引き揚げの日本人も同様で、莫大な資産が朝鮮のものになった。)
「秘伝少林寺拳法」 宗道臣 光文社(「逆説のニッポン歴史観」 井沢元彦 2000年 小学館より)
大きな駅に着いた時、大変なことが始まった。第三国の連盟の腕章を巻いた、あまり風体のよくない若者が、窓から無理やりに乗り込んできた。
周囲の人たちを押し退け、突き飛ばして場所をとり、氷が溶けて水の流れ出る臭い魚の箱をたくさん積み込んだのである。 総勢七人のその連中はまったく言語道断で、座っている者を追い立てて、全員が座り込んだ。
(中略)
それから少しして連中の一人が、「さあ、寝るとしようか」と言って立ち上がった。どうするのか見ていると、網棚の上の荷物を払い落とし始めた。棚の上に寝るつもりである。
立っている人間の方を踏み台にして、棚に這い上がったその男は、まだ場所が十分でないのか、足元の荷物を蹴り落とした。ところがその荷物が運悪く、子どもを抱いていた婦人の上に落ち、子どもに当たったので、火のついたように泣きだしてしまった。
それまで辛抱に辛抱を重ねていた私は、とうとう我慢できなくなり、つい無意識のうちに「無茶をするな」と大声で怒鳴ってしまった。
終戦後の三国人の所業を明らかにすると、コリア系団体と反日サヨクの執拗な抗議を受けることから、日本のマスコミではタブーとなってしまいました。現在新しく三国人の実態を知ることができるのは、台湾人の書いた本しかないというのが情けない現実です。
「台湾人と日本精神」蔡焜燦 2000年 日本教文社
(台湾出身の著者は岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に所属していた)
昭和20年8月15日、終戦の詔勅下る。 山奥での作業中に年輩の応召兵が『敗けた!』と隊からの伝令を口にしたまま、呆然と立ちすくんでいた。
我々は何が起こったのかさっぱりつかめない。無理もない、玉音放送があることすら知らされていなかったのである。 ただ中隊長の青ざめた表情は自体の深刻さを物語っていた。
しばらくして、敗戦の事実が我々台湾出身生徒にも正式に伝達されたとき、悔しさと無念の気持でいっぱいになり、とめどなく込み上げる涙で頬を濡らしたことはいまでも鮮明に覚えている。無性に悔しかった。それは他の台湾出身生徒も同じ心境だった。
他方、朝鮮出身の生徒達は、その日から食糧倉庫、被服倉庫を集団で強奪するなど、したい放題のありさまで、我々は複雑な心境でただそれを眺めていた。
日本人を殴って、『戦勝国になったんだ』と威張りちらす者もいれば、『独立だ!』と気勢を上げる輩もいる。敗戦の報は、それまで一つだった”国民”を三つの国民に分けてしまったのである。
「敗戦の詔勅」が発せられた翌日の8月16日、水平射撃用に改修を終えた対空機関砲で上陸してくる米兵を迎え撃つべく和歌山に移動するとの伝達があり、四門あった砲の射手の一人を私が務めることになった。
だが、このときは正直いって心が揺れた。『また行くのか… 』、祖国のために殉ずる気持ちで出征したのだが、いまとなっては”生”への執着が顔を覗かせる。
この日の夜も朝鮮人生徒達が独立を叫ぶ傍らで、40名の台湾人生徒も小さな単位でひそひそと今後を話し合う光景が見られた。『俺達はいったいどうなるのか… 』 『我々は“中国”へ帰るみたいだ』 『それなら俺達も一等国の国民じゃないか… 』がっくりと肩を落とした日本人を気遣いながら、そんな会話が小声で交わされるのだった。
そして8月17日の夕方、連合軍の命令で我が隊の武装解除がはじまり、日本人は復員することが決定した。もちろんこれで例の”本土決戦”の計画も自動的についえた。
しかし残務整理は日本人事務官でこなせるものの、兵隊がいなくなってしまっては武器庫や飛行機などの警備ができない。そこで進駐軍がやって来るまでのおよそ二ヶ月間、学校、練兵場、格納庫、武器庫など、あらゆる軍の施設を我々40名の台湾人生徒が守ることになったのである。
『朝鮮人は信用できない。だから君たち台湾人が守ってほしい』そう言い残して去っていった上官の言葉を、これまで経験してきたもろもろに照らし合わせて了解した。
昭和20年10月、奈良教育隊に米軍が進駐してくると、我々もようやく施設警備の任を解かれることになった。
(中略)
昭和20年12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられる。苦しいこともあったが、離れて久しい故郷台湾の地を踏める。そんな喜びに胸を膨らませ、私は引き揚げ列車に揺られた。
新聞は、近衛文麿元首相の自決を報じ、列車の中では戦勝国民となった朝鮮の連中が威張り散らしている。ああ、日本は本当に負けたんだ……目にするそんな光景が私に日本の敗戦を教えていた。
私は終戦の日をもって"戦勝国民"になったはずだが、やはり心の底でまだ自分は日本国民だという意識があり、複雑な心境で"敗戦"を思った。少なくとも、私は戦勝国民になったことを手放しで喜ぶことなどできなかったのだ。
心の切り替えができない私は、誰から見ても敗戦で肩を落とした日本人に見えたのだろう。また日本兵の軍服で汽車に乗り込んでいた私は、8月15日をもって急に威張りはじめた連中の嫌がらせを受けた。
座席の中に置いた新品の飯盒を朝鮮人に盗まれ、それを奪い返そうとすると、『なんだお前、朝鮮人をバカにするな!降りて来い!』と、たちまち数人に取り囲まれてしまった。
多勢に無勢、勝ち目はない。こうなっては『すみません、私の記憶違いでした』と謝り、難を逃れるしか術はなかった。
それから佐世保に到着するまでの30時間、連中は執拗に私を含め多くの日本人乗客をいびり続けた。
若い女性がトイレに行こうとすると通路を塞ぎ、次の駅で窓から降りるよう指示するなど、この連中のあまりにも情けない行状を、私ははらわたが煮え繰り返る思いで眺めていた。ただ黙って見ているしかなかったのである。
(中略)
佐世保キャンプで私は面白い場面にも遭遇した。あの引き揚げ列車の中で、私を含め敗戦で意気消沈する日本人をいびり続け、肩をいからせていた朝鮮人たちが、「中華民国台湾青年隊」の腕章をつけた我々におべっかを使って擦り寄ってきたのである。
それは中華民国が連合軍の一員であったからに他ならない。弱い者には威張りちらし、強い者には媚びへつらう、そんな彼らの極端な習性を目の当たりにした思いがした。なんとなくいい気がしない。
とはいうものの、大国の狭間で生活してゆかねばならなかった地政学的な環境が、そうした一個の民族性を育んだのだから、いまさらそれを責めても仕方なかろう。
日本人の困窮を尻目に闇市でのしあがる三国人・警察権を無視した三国人
「白い手黄色い手」 1956年 毎日新聞社(「韓国のイメージ」鄭大均 より
「もう日本人じゃない」日本降伏の直後、マッカーサー元帥が厚木に乗りこんでくると、まっ先にこう叫び出したのは在日六十万の朝鮮人だった。
彼らの多くは戦前出かせぎのため日本に渡ってきたか、あるいは戦時中軍部の徴用で連れてこられたもので、内地における生活がみじめだっただけにこの強気が一度に爆発した。彼らは敗戦国にのりこんできた戦勝の異国人と同じように、混乱につけこんでわが物顔に振舞いはじめた。
米でも衣料でも砂糖でもモノが不足していた時代に彼らは経済統制など素知らぬ顔でフルに"モノ"を動かした。当時絶対に手に入らなかった純綿のハダ着や雑貨、菓子類、ウィスキー、外国の医薬品など彼らのヤミ市では簡単に買うことができた。ヒロポンや密造酒が集散されたのも主としてそこだった。ゴミゴミしたマーケットから金持が続々と生れていった。
完全な無警察状態……。そのいい例が昭和二十四年春、東京深川でおこった枝川町事件である。朝鮮人四人組が月島の織物問屋から純綿八十二反を盗み出して巨利をせしめた。
犯人の身もとがわかり、深川署の刑事ふたりが逮捕状をもって……出かけたところ、……逆に”不審尋問”され、袋だたきの目にあった。当時の朝鮮人の鼻息がどんなにすさまじかったか、容易に想像できる。”見まい、聞くまい、振りむくまい”深川署の刑事たちはそんな言葉で自分たちの無力を嘆じあったという。
三国人の暴力から日本人を守ったのは警察官ではなくヤクザだった。
「大阪・焼跡闇市」 昭和50年 大阪・焼跡闇市を記録する会編 夏の書房
(戦後の大阪で)実力制覇をほしいままにした集団に、土地を不法占拠したまま店をはる、暴力的な闇商人の一群があった。彼らは戦前の繁華街、梅田、難波、心斎橋筋をはじめ、市内各地の焼跡に一夜づくりのバラックを構え、人の私有地であってもその管理人や地主の承認なしに家を建てていった。
そして店をはり、地主が建物の取り除きや立ち退きを要求すると逆に法外な立退き料や賠償金をふっかけたり、実力沙汰で暴行脅迫したのである。また取引をめぐっても、恐喝・暴行による強盗まがいの不法が絶え間なかった。
まさに恐怖と隣り合わせの無法地帯であり、おまけにこの闇商人の中に、当時三国人といわれた台湾省民や中国人・朝鮮人が加わっていたことが、民衆の感情をよけい複雑にさせた。
元北区・曽根崎防犯部長はこう回想する。『敗戦の傷跡もいえない曽根崎で、今日もまた、同胞一人が三国人の手で後ろ手にしばられ街頭を引きずられて行った。明日はどうなることか、町の人たちは誰もがこの情景をながめて、歯をくいしばり涙をためて見送っていた。』(「そねざき」曽根崎防犯協会 昭和41年)
(中略)
このような暴力化した社会にどう対処するか、暴力と強奪から民衆の一所懸命の生活をどう守りきれるか――この二点こそ戦後警察に求められ、期待されるところであった。
だが、こと「暴力」に対して警察・取り締まる側の姿勢には、どこか徹底を欠くものがあった。
面前で集団暴行を受ける民衆がいても、事をおこさぬ場合が再三あったし、敗戦直後、日本人業者と三国人業者の利益をめぐっての騒ぎが頻発した時、警察は紛争鎮圧の用兵として、暗黙ながら暴力団の実力をアテにしている。
「一億人の昭和史 ―日本占領3 ゼロからの出発―」 1980年 毎日新聞社
昭和25年当時、国際港神戸はまた日本一の密貿易の根拠地でもあった。巨大な国際密輸シンジケートがいたるところ張り巡らされ、瀬戸内海へ何十隻もの密輸船が出航…
(中略)
ところで、当時の神戸の密貿易は、大半が台湾、朝鮮などの旧外地との間で行なわれていた。神戸が第三国人の根拠地となっており、東京、横浜に比べ旧外地に近かったこともあり、密輸量は日本一。
(中略)
国際密輸組織の中核は一貫して第三国人だった。
敗戦後、神戸に三宮駅から神戸駅まで約2キロに及ぶ全国に例をみない大ヤミ市場ができたが、密輸品の多くはここでさばかれた。
そこに大きな勢力を張っていたのが数万人の第三国人で、戦勝国意識を誇示するため腕章をつけ、日本の警察権を一切認めようとしなかった。
こうした特権をフルに利用、密輸団を操る黒幕になった三国人もでた… 黒幕だった三国人のなかには、密輸の巨利で今は正業につき、実業家として幅をきかしている者もいるといわれる。
敗戦後の社会の混乱に乗じて徒党を組み、戦勝国人なりと称して日本の法律を無視し統制物資のヤミ売買、強・窃盗、密造酒や覚せい剤の製造密売、土地建物の違法占拠など不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大したのである。
「朝日新聞記者の証言5 -戦後混乱期の目撃者-」 菅野長吉 昭和56年 朝日ソノラマ
(引用1) 「あらゆるものはヤミに走った」といってもいい過ぎではなかった。戦時中は「国家総動員法」という基本法があって、あらゆるものが総合的に統制運用され、子どもにまで「欲しがりません、勝つまでは――」といわせた。それが20年12月20日に廃止されると、あらゆる物資がせきを切って暴騰した。
都市の人口は日毎にふくれあがり、食糧不足から餓死者も出る有り様だったから、抑えようがない。東京では、むしろこれに拍車をかけたのが、警視庁が21年1月21日からはじめた主食とその加工品の取り締まり強化である。当然、非合法商法が横行しはじめた。
しかも、当時の取り締まり当局には、これら非合法行為を防止するための物もカもない。これに眼をつけたのが、戦勝国人なりとする一部の第三国人の〃特権〃乱用と、裏街道を生きるテキ屋集団である。
彼らは正常ルートを通すべき物資を巧みに横流しし、第三国人はその立場を利用してあらゆる物資を動かす。場所には困らない。大都市の要所はほとんど焼け野原となっていたから、集団のカによれば簡単に占有できた。
こうして東京では、上野、新橋、新宿、池袋、渋谷などに急造のマーケットが建った。ヤミ物資の市〃ヤミ市〃である。ここには、配給では手に入らないあらゆる物資が公然と氾濫したから庶民は目の色をかえて集まった。
ヤミ商人たちは、禁制品や統制品を公定価格の10倍から20倍という法外な値段で暴利をむさぼったから、やせ細る庶民とは反対に、日に日に肥え太り、集団もその環を拡げてゆく。繩張りを主張する集団間の争いもはげしくなり、治安問題となってきた。
手を焼いた警視庁は、ヤミ市の〃自治強化〃のため地区単位に組合を結成させたが、これがかえってボスを台頭させる結果になり、勢力を助長させた。新宿の尾津組、新橋の安田組などは、組合員と称する配下が3000とも4000ともいわれた。
また当時は第三国人に対する警察の捜査権も確立していなかったから、第三国人は勝手なことができた。一時期、この大集団に対して、確かに警察は無力で、ヤミ市の治安はそれら集団の自治に委せざるをえない事情にあった。彼らが自らを〃夜の警察〃と自負していたのもこういうことからである。
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(引用2) 戦後日本の特殊な存在として第三国人というのがあった。今やこの呼称は全くの死語となったが、戦後混乱期には国民生活に大きな影響を持った。
第三国人というのは、日本のポツダム宣言受諾によって、日本の帰属から離れることになる朝鮮、台湾などの出身者で、戦前から日本に居住していた人たちに対して、講和条約の発効まで一般的につかっていた非公式な呼称で、この人たちは日本人てはないが、かといって外国人でもないという特殊な立場にあった。
講和条約発効までの限られた期間ではあったが、これら第三国人に対しては、日本の裁判権行使もあいまいだったところから、彼らの一部には、治外法権があるかのような優越感を抱かせ、社会の混乱に乗じて徒党を組み、統制物資のヤミ売買、強・窃盗、土地建物の不法占拠などの不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大した。
富坂署襲撃事件
昭和20年も押しつまった12月26日と29日の両日、場所も同じ小石川区(現文京区内)駕籠町の路上で、けん銃強盗事件が連続して発生した。
警視庁捜査一課と富坂署が合同捜査をし、都下三鷹町の朝鮮人3名を容疑者として逮捕、富坂署に留置した。
翌年1月3日、トラック3台に分乗した朝鮮人約80名が同署に乗りつけ「朝鮮人を留置するとはけしからん、即時釈放しろ」と要求、拒否すると、一団は署内に乱入、電話室を占拠して外部との通信連絡を断ったうえ、いす、こん棒などをふるって署員に襲いかかり、ついに留置中の朝鮮人を奪取して逃走した。
警視庁は直ちに犯人捜査に当たったが、第三国人に対する捜査権の不明確さから不徹底なものになり、捜査員を歯ぎしりさせただけで終わった。しかしこの事件は、第三国人にさらに不当な自信を持たせる結果となり、「警察何するものぞ」とする不正行為を続発させることになった。
(中略)
ヒロポンとカストリ
覚せい剤、密造酒となると、これは第三国人の独壇場といった感があった。ヒロポンやゼドリンといった覚せい剤は、戦時中、軍需工場で作業能率を高めるために使われていただけで、一般には手に入らないものだったが、終戦によってこれが大量に放出されたことから、街娼や博徒、芸能人が使いはじめ、中毒者が増えていった。
悪化した中毒患者は幻覚、半狂乱といった症状を呈するようになり、これが原因で各種の犯罪を引き起こす事例が多発し、治安上の問題に発展した。
特に第三国人らが製造するヒロポンは家内作業で密造するため不潔で、また患者らの要求に応じた即効性のある粗悪品だったから、品質の点でもさまざまな問題があった。
覚せい剤密売の巣窟とみられていたのは、台東区浅草松濤町の部落で、約130世帯、230人の住民のうち約半数が朝鮮人で、覚せい剤の売りさばきを主な業としていた。厚生省は23年7月、これらの覚せい剤を「劇薬」に指定し、自由販売を禁じた。
しかし需要は増加する一方だったところから第三国人がこれに目をつけた。なかでも製造容易なヒロポンの密造販売を組織的にはじめたから、覚せい剤の害は急速に一般青少年層にまで拡がっていった。
この覚せい剤とともに大流行したのがカストリの密造である。米不足からの酒不足に悩む大衆は、この安い酒に群らがった。
工業用アルコールを主原料とした〃原子爆弾〃とよばれた酒の弊害が叫ばれはじめた当時で、このカストリはたちまち大衆酒場の寵児(ちょうじ)となった。
家内作業で容易に密造できることが、製造量を激増させた。これに対し警視庁の取り締まりは、執拗に波状的におこなわれた。われわれもこれらの密造密売の実態を報道するため、何度もこれに同行したが、部落総掛かりの防衛体制にはおどろくべきものがあった。
女、子どもも部落の監視員で、警官の出動を知ると、幼い伝令が金切り声で飛び回る。ドブの臭いのする物置小屋から密造桶が発見されると、泣き叫びながら警官に武者ぶりつく。
摘発されたカストリは直ちに現場の路上や溝に棄てられるが、その濃密なにおいで部落中はむせかえるばかり。まさにカストリ戦争、ヒロポン戦争だった。ヒロポンの密造所があるという伊豆の山奥に行ったことがある。
ほとんど小道もない山奥に、二つ三つと小さな小屋があり、炭焼き小屋のように煙をあげている。小屋の中には蒸留器らしいものがあるだけ。追いつめられた第三国人らの、これが最後の砦だった。
「渡日韓国人一代」 金鍾在 述 玉城素 編 1978年 図書出版社
(著者の金鍾在は1916年渡日、戦後東京韓国学園初代校長をつとめた。)
戦後、一時に職を失った在日朝鮮人同胞は、生計を支えるために、いろいろな仕事にたずさわったが、そのうち数多かったものに酒の密造がある。
朝鮮の伝統的な手法による濁酒(マッカリ)の製造もあれば、旧日本軍隊の隠匿物資の工業用・航空用メチルアルコールを加工してアイデアル・ウィスキーと名づけて販売する者もあった。
そのメチル酒を飲んで生命を失ったり失明したりする騒ぎが頻発したため、日本治安当局も米進駐軍の力を借りて一斉検挙に乗り出した。手入れを受けた各地の朝鮮人集落は、たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。警察に挙げられたり起訴されたりする者も続出した。
三国人の覚せい剤密造は警察の力により日本では壊滅したが、彼らが莫大な利益を手にする手段を手放すわけがなく、韓国を製造拠点として日本へ密輸を始め、我が国は再び覚せい剤に汚染されることになるが、驚くべきは日本人を食い物にして平気という韓国人の道徳観念である。
戦後の混乱で他人の土地を不法占拠する三国人。これは現在まで引き続く問題です。
「在日韓国・朝鮮人に問う」 佐藤勝己 1991年 亜紀書房
当研究所の創立者故古屋貞雄理事長が生前手掛けていた仕事のひとつに東京都池袋西口都有地払い下げの問題がある。
私がその仕事を引き継ぎ、現在もやっているが、これは旧豊島師範学校跡地を無断占拠し、商売をはじめたいわゆる敗戦直後のブラックマーケットの区画整理にともなう有名な(都内の不動産業者で知らない人のいないほどの)都有地払い下げ事件である。
私がこの事件に関与して20年になるが、調べていくうちに、マーケット内の朝連系朝鮮人の「活躍」を知ることができた。ここで活躍したかなりの人達が、北朝鮮に帰国していったようである。
このマーケットの中は、治外法権だった。警察権力の手は到底及ばなかった。そこを取りしきっていたのが"ヤクザ"だが、ヤクザの中にも朝鮮人はいたし、そのヤクザ集団が、”チョウレン”と聞いただけで緊張し、身を震わすというほどの"実力"を持っていた。
この池袋西口と似た場所が、都内の上野、新宿、新橋などにあった。池袋西口でどのようなことが展開されたかは省略するが、結論だけを記せば、かつてそこに住んでいた日本人住民で、当時の朝鮮人を良く言う人は誰もいないというか、ほとんどの人が今でも敵意すら抱いている。
このような一連の諸事実の積み重ねの中で、日本人が在日韓国・朝鮮人に対し、右に記したような事を抱いていったことは、日本人の偏見と差別のみで説明できるような単純なことではなかろう。
当時、日本人に偏見や差別が、現在よりも比べようもなく多くあったのことは間違いないが、それをさらに裏付け補強する行動を繰り広げたのは、一部の在日韓国・朝鮮人たち自身ではないか。
1947年5月の外国人登録令の施行や、その後の指紋押捺制度の導入などは、このような政治的社会的背景の中から出てきたもので、日本政府や日本人の偏見や排外的な考えのみから生まれてきたものではないのである。
『けん銃片手に「戦争に負けたんやから、おまえの土地やない」と押しかけるやつまでおった』
「朝鮮人差別とことば」 内海愛子、梶村秀樹、鈴木啓介編 1986年 明石書店
○「少年サンデー」 1970年8月30日号 梶原一騎原作「おとこ道」
『最大の敵は、日本の敗戦によりわが世の春とばかり、ハイエナのごとき猛威をふるいはじめた、いわゆる第三国人であった!!』 『殴られる前に殴るんだ 三国人どもを』
○「ヤングジャンプ」 1980年10月 手塚治虫原作「どついたれ」
『ここはこれからタップリ血だまりができるんだ。三国人との決戦でェ!』『三国人とのでいり』といった言葉がひんぱんにでてくる。
○「朝日新聞記者の証言5」 1981年8月 朝日ソノラマ発行
『第三国人』が『いかに法を無視し、警察を軽視していたか』『彼らの一部には、治外法権があるような優越感をいだかせ、社会の混乱に乗じて徒党を組み、統制物資のヤミ売買、強・窃盗、土地建物の不法占拠などの不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大した』『覚せい剤、密造酒となると、これは第三国人の独壇場といった感があった』第三国人という呼称は『今やまったくの死語になった』と書いている。
○「ビッグマン」 1983年1月号 ダイエー中内社長のインタビュー
『その当時は(神戸が)第三国人に支配されていまして… 』
○「中内功の限りなき挑戦」 1984年5月 大下栄治著 講談社発行
『当時、神戸のブラックマーケットではいわゆる"第三国人"と呼ばれていた中国人や朝鮮人が幅をきかせていた。「戦勝国民」という腕章をして、暴れ放題… 』