犯罪民族

これを見て 今も脅してる、脅して生活保護や税金優遇させてると思います
時代が変わり、逮捕されない、脅し、ステルス脅し
「集団ストーカーです」
自分は 集ストの被害者だから これに気づいたんです
旭川イジメ事件を調べ 旭川乗っ取られてると確信して
被害者 さあやちゃんが 教えてくれたんです
政治家もやられてますよ 元公明党党首 矢野絢也氏
何度も言ってますが「軍隊並みの統率力」
ただの組織じゃないんです 国ぐるみとは言えませんが

旭川イジメ 事件の 尾木ママ も多分やられてた
意気込んでたのに 急に「因果関係は無かった」 手に取るようにわかる

Xもシャドウバン ユーチューブも再生回数10回ほど
でも 内容が確信位迫ってると思ってるので 見る人が見ればわかってくれるはず^^

 

拉致問題も暴いてやるからな 失敗作人がっ
拉致問題と大町ルートの話(R6.11.22)
https://note.com/kumoha551/n/nf7c63f7a8b1c

 

 

 

必ず追い出す!

当時はホームレスや子供を含めた浮浪者数は、いまとは比較にならないほど多くいたのが実態であった。
GHQは駅前の日本人の住宅が奪われ、ガード下店舗を在日韓国人・朝鮮人らから不法占拠されようが指導もせず、
日本政府は見て見ぬ振りをせざるを得なかったという。

 

『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実
韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった 水間政憲』
(「強制連行」どころか、密航までして日本を目指した朝鮮人)

 

大阿仁村事件 (1945年10月22日)
秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁町の集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し栗を拾っていた所を村人に発見され注意したところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。午後1時になると約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。

 

生田警察署襲撃事件 (1945年12月24日、1946年1月9日)
兵庫県生田警察署では、岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張した岡山県警察部の捜査員に協力した。
その後1945年12月24日午後9時「岡山の刑事を出せ!」と叫ぶ50人以上の朝鮮人の集団が署内に乱入して、拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内を探し始めた。
岡山県の捜査員たちは署からの脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部の連絡を絶たせた。急を聞いた米進駐軍憲兵がジープで駆けつけたため、ようやく事態を収拾させることができた。
また翌年1月9日、生田署が三宮ガード下で賭博団を検挙すると、30~40名の朝鮮人たちが再度署内に乱入し、検挙者を奪還しようとしたが、生田署はこの暴徒を制圧し、進駐軍憲兵と協力して首謀者とみられる3名を検挙した。

 

直江津駅リンチ殺人事件 (1945年12月29日)
信越線黒井駅でヤミ米ブローカーの朝鮮人3名が列車の窓ガラスを割って乗り込もうとしたところ、ある日本人乗客に拒まれて乗り込むことができず、デッキにぶらさがって直江津駅まで行った。彼らは直江津駅でその日本人乗客に対し、「乗降口から乗れないので、仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのになぜ妨害した」と詰め寄ったが、日本人乗客が「窓から乗り込むという方法はない」と反駁したので、「朝鮮人に向かって生意気だ! ホームに降りろ! 殺してやる!!」と叫んで、その乗客をホームへ引きずり出して、パイプやスコップで滅多打ちにして殺害した。
朝鮮人3名はその後逮捕されたが、全員逃走してしまい、結局うやむやのうちに終わってしまった。
なお余談ではあるが、この種の鉄道内の不法行為を防止するために、急遽設けられたのが「鉄道公安官」制度である。
【このような事例は全国各地で続発しており、蔡焜燦氏や北斗星氏の証言も残っています。】

 

富坂警察署襲撃事件 (1946年1月3日)
1945年末に起きた強盗事件の容疑者として朝鮮人3名が逮捕され、そのうちの一人が警視庁富坂警察署に留置されていた。
1月3日になって約80人の朝鮮人の集団が署内に乱入して、容疑者の釈放を要求したが、署長が拒否し続けたため、朝鮮人たちが椅子や棍棒で襲いかかるなど暴徒化して、事実上警察署が占拠された。そして留置所に留置されていた容疑者を捜しあてて、署外に連れ出して逃走させた。

 

長崎警察署襲撃事件 (1946年5月13日)
1946年5月13日、長崎県警察部はヤミ市場の取締で、朝鮮人26名・中国人6名・日本人150名を長崎県長崎警察署に連行した。朝鮮人・中国人団体が即時釈放を要求したが、聞き入れられなかったため、在日朝鮮人連盟の青年自治隊員100名とその他中国人など総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせた(うち1名は死亡)。捜査の結果、60名の朝鮮人と7名の中国人を検挙した。

集団韓国人の襲撃に遭い 長崎警察署勤務 巡査部長花岡寅吉

 

富山駅前派出所襲撃事件 (1946年8月5日)
1946年8月5日、富山県警察部は富山駅でヤミ米の摘発を行い、ヤミ米ブローカの朝鮮人3名を検挙したが、それを見ていた自治隊員2名が妨害し、ヤミ米ブローカを逃走させてしまった。そこで、その自治隊員を公務執行妨害で逮捕した。
この騒ぎで派出所周辺に30名の朝鮮人が集まり、連絡を取ろうとした警察官が群集に取り囲まれ、それを救出しようとした他の警察官との間で大乱闘になった。
ついに富山警察署長は富山軍政部を訪れ、軍政部の協力を得ることに成功し、富山駅前にあった「自治隊出張所 」を閉鎖させ、逆に駅前派出所には武装警察官10名を常駐させ、ヤミ米輸送を阻止した。

 

坂町事件 (1946年9月22日)
羽越線坂町駅において、新潟県村上警察署が主食取締りを行ったところ、中国人15名・朝鮮人約50名が警察官に襲いかかり、暴行を加えた。警察官は傷を負いながらも朝鮮人2名を逮捕した。
同日午後、坂町・金屋両駐在所から「ヤミ米を運搬している」という報告があったので、署から私服警察官10名が急行し臨検を行った。そのとき、約15名の朝鮮人と中国人が襲いかかり、殴る蹴るの暴行を加えた。さらに駐在所に侵入して器物損壊等を行ったため、警防団、隣接警察署、進駐軍からの応援により、これを鎮圧し12名を検挙した。

 

新潟日報社襲撃事件 (1946年9月26日~29日)
1946年9月26日に、朝鮮人団体の幹部たちが新潟日報社を訪れ、坂町事件を報道した読売新聞と新潟日報の代表に対し、記事の内容が事実に相違するということで、記事の取り消しと謝罪を要求した。
読売新聞側は不確実な記事であったことを認め謝罪したが、新潟日報側は社長の不在を理由として29日まで返答を猶予した。
29日に朝鮮人団体幹部たちは再度新潟日報社を訪れ、話し合いがもたれたが、納得のいく回答が得られなかったことに腹を立てて、新聞社社員3名に軽症を与え、窓ガラス、椅子等を破壊したので全員検挙した。

 

首相官邸デモ事件 (1946年12月20日)
宮城前広場(現在の皇居前広場)において、朝鮮人約2000名が生活権擁護人民大会を開催し、終了後首相官邸にデモ行進を行った。このときの一隊が官邸に押し入ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突して大乱闘となり、警察官の拳銃2挺、実弾が奪われた。
このため、武装警官358名、進駐軍憲兵20名が応援出動して、拳銃を発射するなどして制圧し、首謀者15名を検挙して身柄は米進駐軍憲兵隊に引き渡された。彼らは軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。

 

尾花沢派出所襲撃事件 (1947年10月20日)
1947年10月20日午後3時ごろ、米の買出し取締りに不満を持っていた朝鮮人7名が、山形県楯岡警察署管内の尾花沢派出所に侵入し、警察官が不在であったのを奇貨として派出所内の器物を破壊し、『尾花沢派出所』の表札を外して一旦逃走した。
その後、警察官が戻って異変に気づき、本署に連絡した。そのとき、さっきの朝鮮人7名と他の朝鮮人30名が派出所に押しかけ、警察官3名に重傷を負わせた。警察は米進駐軍憲兵の協力も得て、29名を検挙した。

 

阪神教育事件 (1948年4月23日~25日)
阪神教育事件
1948年1月、文部省は各都道府県知事に対し、朝鮮人学校に学校教育法を適用するように通達を出した。大阪府ではこれを受けて、朝連の幹部や朝鮮人学校の校長を集めて話し合おうとしたが、朝鮮人側それに応じる気配を見せなかったので、3月15日に閉鎖勧告を行った。しかし、朝鮮人学校8校が引き続き授業を継続していたので、府教育部は4月15日限りで閉鎖すると厳命した。
1948年4月23日、これに反対するデモ隊約7000名が府庁前の大手前公園に集まって気勢を上げた。朝鮮人代表15名は大阪府庁内で副知事・学務課長と交渉していたが、主張が容れられなかったので、朝連系の青年行動隊等数百名が府庁に乱入して、知事室や各階を占拠した。大阪市警察局と国家地方警察大阪府本部は3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除した。

神戸では、翌24日に朝鮮人学校問題に関する協議会が兵庫県庁で開かれた。会議には兵庫県知事および副知事、神戸市長、神戸市警察局長、神戸地検検事正など14名が参加していた。そこに、青年行動隊数百名がなだれ込み、知事や市長に対して自分たちの要求を認めさせた。また、市警察局長や検事正に対しては、検挙者の釈放と今回の行為を処罰しないことなどを文書で認めさせて解散した。
しかしその夜、進駐軍神戸地区司令官は、協議会の参加者を神戸基地司令部に集めて、神戸地区に「非常事態宣言」を布告し、24日の文書を無効とし、デモ参加者を一斉検挙した。検挙者は1800名におよび、首謀者は軍事裁判に付され、一部は国外追放となった。

 

評定河原事件 (1948年10月11日~12日)
1948年10月11日と12日の両日、宮城県仙台市の評定河原グラウンドにおいて、朝連と在日本朝鮮民主青年同盟(民青)の主催で、北朝鮮政府樹立祝賀会と運動会が開催されたが、このときGHQにより禁止されていた北朝鮮国旗を掲揚したため、仙台市警察と進駐軍憲兵がこれを阻止し、進駐軍憲兵に抵抗した朝鮮人1名が腹を撃たれて負傷、合計6名が検挙された。

 

宇部事件 (1948年12月9日)
宇部市民会館において朝連系約200名が参集し、生活擁護人民大会を開催中、手配中の朝連県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕したが、大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなり、警察側の発砲によって鎮圧された。

 

益田事件 (1949年1月25日)
島根県美濃郡益田町(現在の島根県益田市)の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して摘発に乗り出したが、拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが、約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したが、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために、警察官と乱闘になり48名が検挙された。

 

枝川事件 (1949年4月6~13日)
東京都江東区枝川町の朝鮮人集落において、刑事3名が窃盗犯人を逮捕し、連行しようとした時、犯人が逃走したので威嚇発砲をしたところ、集まってきた朝鮮人約50人が刑事を取り囲み、暴行殴打し瀕死の重傷を負わせ拳銃2丁を奪った。
その後の交渉で、警察は暴行者の引渡しを要求したが、朝鮮人側は刑事の処分と暴行犯人引渡し拒否の要求をしたため、9日以降枝川町を封鎖し、13日に一斉検挙を行い被疑者9名を検挙した。

 

高田ドブロク事件 (1949年4月7日~11日)
新潟県中頚城郡新井町 と同郡中郷町の朝鮮人集落では大掛かりな酒の密造をを行っており、警察などの関係当局は1949年4月7日早朝に一斉取締りを断行し、証拠物件を押収した。 その後、この摘発に抗議する朝鮮人約200名は新潟県高田市の高田市警察署に押しかけ、警察署庁舎に投石して窓ガラスを割ったので、4名を検挙した。
翌8日には高田税務署に押しかけ、署内に侵入しようとしたり投石をしたため、1名を不退去罪で検挙した。
11日になると、朝鮮人約500名は高田市内をデモ行進した。警察はこれまでの穏健路線を転換し、首謀者12名を検挙した。

 

本郷村事件 (1949年6月2日~11日)
福井県大飯郡本郷村(現在の福井県大飯郡大飯町)の派出所勤務の巡査が戸口調査をするために、朝鮮人集落に赴いたところ、多数の朝鮮人が「我々を差別扱いする」と言って戸口調査を妨害し、同巡査に暴行を加えた。
その後連日、派出所や警察署に約200名が押しかけ抗議した。

 

下関事件 (1949年8月20日)
下関事件 (騒乱)
1949年8月20日早朝、山口県下関市内の民団側朝鮮人家屋を朝連側朝鮮人約200人が竹槍・棍棒を所持して襲撃し、民団員十数人に傷害を与え、さらに家屋19戸を次々に破壊して金品を略奪した。このため市内は一時大混乱になった。
下関市警と国警山口県本部は山口県下の警察官約1000名を動員して、朝鮮人約200名を騒擾罪で検挙した。

 

台東会館事件 (1950年3月20日)
1949年9月8日、法務府は朝連に対し団体等規正令を適用して解散命令を出した。
東京都は当法令に基づき朝連の台東会館を一時接収したが、「台東会館防衛闘争委員会」を名乗る旧朝連員によって奪還され、さらに約400名がバリケードを構築して、小石や鉄片や唐辛子を投げつけるなどの実力抗争に出たために警察隊と乱闘になり、旧朝連員120名が検挙された。

 

連島町事件 (1950年8月15日)
岡山県浅口郡連島町(現在の岡山県倉敷市)で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり、集会を強行したので、制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した。

 

第二神戸事件(長田区役所襲撃事件) (1950年11月20~27日)
長田区役所襲撃事件
11月20日、約300名の朝鮮人が生活権擁護陳情のため、神戸市の長田区役所に押しかけ、区長と団体交渉に入ったが、排除にあたった警官隊と揉み合いになり、兵庫県朝鮮青年団体協議会議長を逮捕した。
24日には、長田警察署と長田区役所にデモ行進し、その際の衝突で26名の検挙者がでた。
27日になると、旧朝連系約900名は、棍棒・白鉢巻の姿で西神戸朝鮮学校に集合して不穏な形勢を示し、デモ行進に移ろうとしたので、これを阻止しようとした警官隊と衝突し、デモ隊の一部は長田区役所、長田税務署に殺到して窓ガラス等を破壊した。神戸市警察局は、占領目的阻害行為処罰令違反と騒擾罪容疑で188名を検挙した。
【「第一神戸事件」は「阪神教育事件」を指す】

 

四日市事件 (1951年1月23日)
旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った。そのため、執行係官7名が全治2~3週間の重軽傷を負った。警察が出動して公務執行妨害容疑で15名を検挙した。

 

王子朝鮮人学校事件 (1951年3月7日)
1951年2月28日、警視庁は占領目的阻害行為処罰令違反容疑として東京都北区上十条にある東京都立朝鮮人中高等学校を捜索し、多数の印刷物を押収した。
3月7日、これに抗議する約1700名の朝鮮人(うち朝鮮学校生徒1100名)が同校で「真相発表大会」を開催し気勢をあげ、付近の民家で現場写真を撮影していた捜査員に対して殴る蹴るの暴行を加えたため、他の警察官が助けようとしたが、投石その他で拳銃2丁を奪うなど実力で抵抗した。このとき8名が検挙された。

 

神奈川事件 (1951年6月13日)
横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。
運動会終了後、約500名の朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで気勢をあげた。そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した。

 

下里村役場集団恐喝事件 (1951年10月22日)
兵庫県加西郡下里村(現在の兵庫県加西市)において、朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために下里村役場に押しかけ、村役場職員を吊るし上げ、椅子を振り上げる等の暴挙に出たので、暴行脅迫・恐喝容疑で15名を検挙した。

 

福岡事件 (1951年11月21日)
「強制追放反対」を叫ぶ朝鮮人約1500名が、福岡市大浜新校地と西公園に分散して集合し、そのうち新校地の一隊が同市千代町へ向かってデモ行進したため、それを阻止しようとした警官隊と乱闘となり、16名が検挙された。
その後、解散に見せかけて、新校地に再結集し集会を開いた。警官隊が解散を命じたが応じなかったので、再度乱闘となり5名を検挙した。

 

東成警察署催涙ガス投擲事件 (1951年12月1日)
1951年11月10日、泥酔中の朝鮮人を警察が保護したが、容態が急変して同日夜に死亡した。乗っていた自転車が転倒して肝臓が破裂したことが原因であった。
ところが、朝鮮人側は警察官の暴行により死亡したとデマを流し、約30名の朝鮮人が東成警察署へ抗議に訪れ、署員の制止を聞かずに署内に乱入しようとしたので、これを阻止すると、催涙ガス瓶を投げ入れたり、投石してガラス窓を破壊したので、被疑者3名を検挙した。

 

半田・一宮事件 (1951年12月3日~11日)
1951年12月3日、愛知県の半田税務署に密造酒取締の件で朝鮮人が押しかけ、署長以下数名を監禁した。
一方、一宮税務署管内でも密造酒取締に対して、約100名の朝鮮人が捜査の妨害をした。 そのため、半田・一宮両市警及び国警愛知県本部は12月8日に一斉強制捜査を行い、容疑者27名を検挙した。
12月11日、これに抗議する朝鮮人約150名が半田市役所に押しかけて、庁舎内に乱入して警備の警察官ともみ合いになった。
また名古屋市港区役所にも約70名が押しかけ、区長が乗っている乗用車を取り囲み、バックミラーや方向指示器を破壊した。
他にも一宮税務署、一宮市警、名古屋市役所及び千種、北、瑞穂、南の各区役所にも押しかけた。

 

軍需品製造工場襲撃事件 (1951年12月16日)
上記の東成警察署で死亡した朝鮮人の追悼式に参加した朝鮮人約110名は、3班に分かれて、大阪市内四ヶ所の親子爆弾製造工場(民団系)を襲撃し、製品や窓ガラスを破壊したり、従業員に暴行を加えたりした。

 

日野事件 (1951年12月18日)
朝鮮人約50名が、自転車隊を編成し、白襷をかけ、「強制送還反対」のプラカードを掲げ、メガホンやスピーカーを所持し、強制送還反対を叫びつつ滋賀県内を無届デモ行進をした。
警察は公安条例違反として再三中止を警告したが応じなかったので、滋賀県蒲生郡日野町において実力行使に出たが、石や薪などを持って抵抗したり、拳銃を奪い取るなどして反抗した。
これにより、警察側に25名の重軽傷者を出したので、拳銃を発砲してこれを鎮圧した。35名が検挙された。

 

木造地区警察署襲撃事件 (1952年2月21日~23日)
1952年2月21日に国家地方警察青森県本部所属の木造地区警察署で傷害容疑の朝鮮人2名を逮捕したが、朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。
23日になると、約70名が署内に侵入しようし、警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。

 

姫路事件 (1952年2月28日)
兵庫県姫路市において、民団広畑分団長ほか3名の民団員宅に旧朝連系約20名が覆面して押しかけ、器物を破壊して逃走した。また同時刻に姫路市内の交番4ヶ所に5~30名の朝鮮人が押しかけて、警察官を軟禁し、多数の威力を示して脅迫した事件である。捜査の結果21名を検挙し、竹槍等の凶器を押収した。

 

八坂神社事件 (1952年3月1日)
三・一事件記念の名目で集まった約70名の朝鮮人デモ隊が、大阪市東成区の八坂神社境内に突入しようとしたため、大阪警視庁機動隊と大乱闘となり、朝鮮人側に十数名の負傷者を出して解散した。
一時間後、いったん解散させられたデモ隊40名は近くの朝鮮人集落の広場でジグザクデモ行進を始めたので、東成署員約50名が現場に急行、解散させた。この事件で6名が検挙された。

 

宇治事件 (1952年3月13日)
1952年3月13日午前1時頃、宇治市警小倉派出所・伊勢田臨時派出所及び警察官宅3ヶ所に、それぞれ5名の朝鮮人が押し入り、表戸などの器物を破壊し、「殺すぞ」の暴言を吐いて逃走した。
そのため、宇治市警は国警京都府本部の応援を得て426名の特別検挙隊を編成し、宇治市ウトロ地区(朝鮮人集落)を捜索、小競り合いなどがあったが、6名を検挙した。 また伏見税務署も密造酒の捜索を行い、密造酒2升を押収した。

 

多奈川町事件 (1952年3月26日~30日)
大阪府泉南郡多奈川町(現在の大阪府泉南郡岬町)において、密造酒取締の結果、9名を検挙し証拠物件をトラック10台に満載して引き上げようとしたところ、これを奪還するため約500名の朝鮮人が押しかけ、投石その他によりトラックの進行を阻止して、9台分の押収物件を破棄し、被疑者を逃走させて運転手に暴行を加えた。その後の捜査の結果27名を検挙した。

 

田川事件 (1952年4月19日)
1952年4月13日、福岡県の七曲峠で花見をするために集まっていた日本人グループと朝鮮人グループが喧嘩になり、双方に死傷者が出た。国家地方警察田川地区警察署は両グループを検挙した。
ところが19日になって、朝鮮人の集団が田川地区警察署に押しかけ、犯人の即時釈放を要求した。警察は3名のアリバイを認め釈放したが、朝鮮人たちは引き続き全員の釈放を要求し続けた。午後11時になり、警察が排除に乗り出したので、彼らはガラス戸に向かって投石をし始め、ガラス戸27枚が破損、警察官7名が負傷した。
21日に再度、田川地区警察署に押しかけて署長に面会を求め、署内に乱入しようとしたため、催涙弾を使用して鎮圧した。

 

岡山事件 (1952年4月24日~5月30日)
阪神教育事件の記念日である4月24日に、朝鮮人約200名が岡山市公安条例に違反する無届デモを敢行し、岡山市役所に突入しようとしたので、岡山市警が制止しようとしたところ、旗ザオに見せかけた竹槍で警察官2名を刺し、「プロムアセトン(催涙ガス)」入り瓶を投げつけたり投石したので乱闘になり8名を検挙した。
5月1日のメーデーでは、労組による合法デモに入り込んで警察官を追いかけたり、岡山新聞社の写真部員に投石したりした。
11日に岡山市警は傷害容疑で英賀朝鮮人学校に乗り込んだが、校内の約300名の朝鮮人の妨害を受けたため、公務執行妨害で8名を検挙した。その後、朝鮮人約500名は飾磨警察署を包囲して気勢をあげた。

 

血のメーデー事件 (1952年5月1日)
第32回メーデー大会に参加したデモ隊の一部は、日比谷公園前において「人民広場 に押しかけろ」を合図に同公園を通過し、警官隊の警戒線を突破して皇居前広場に殺到したため、警官隊と乱闘になった。
乱闘中に、3000~5000名の旧朝連系(在日朝鮮統一民主戦線・祖国防衛隊)を先頭とする数万のデモ隊がこれに合流したため、双方の乱闘が一段と激化し皇居前は一大修羅場と化した。この事件で2名が死亡し、日本人1078名、朝鮮人131名が検挙された。

 

上郡事件 (1952年5月8日)
4月10日に左翼系朝鮮人5名は、兵庫県赤穂郡船坂村で、別の朝鮮人3名に対して日本の学校に入学させていたことを理由に「スパイ」と難癖を付け、巻き割りで殴打した。
その事件の容疑で5月8日に国警赤穂地区警察署は、朝鮮人8名を検挙した。その後、容疑者は神戸地検姫路支所に護送されたが、その間朝鮮人の一団が赤穂地区警察署に押しかけ、容疑者の奪還を図ろうと南へ約50m離れた小谷薬局前で警察と乱闘になったが、容疑者の身柄は無事護送された。

 

大村収容所脱走企図事件 (1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
1952年5月12日、韓国に強制送還された朝鮮人のうち、125名が手続不備で逆送還されて、大村収容所に再収容された。
これに対し、民戦から数回にわたって抗議した後、5月25日になって50名が抗議に押しかけ、代表が当局と会談中、外部の者は盛んに収容者に対し、逃走をけしかけた。そこで約100名は混乱に乗じて逃走を企図し、12名が逮捕されてようやくおさまった。
その後、11月9日~12日にわたって、また民戦活動家数十名が押しかけ代表が当局と交渉中、654名の収容者が一斉に脱出を企図したので、催涙弾と消防車でこれを阻止し、首謀者12名を検挙した。

 

広島地裁事件 (1952年5月13日)
駐在所と民家に放火した容疑で検挙した朝鮮人4名の裁判が広島地方裁判所で開かれたが、傍聴していた朝鮮人約200名が柵を乗り越えて法廷内を占拠、被告4名を奪還して逃走させた。

 

高田派出所襲撃事件 (1952年5月26日)
5月26日早朝、名古屋市瑞穂区にある民団愛知県本部顧問宅へ旧朝連系の朝鮮人数十人が乱入した。
そのため、顧問は瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。警察官が顧問を助けようとしたところ、追跡してきた一団は火炎瓶や石を投げつけて派出所を焼き討ちにした。そして、裏口から逃げようとした顧問を追いかけて暴行を加え、全治10日間のけがを負わせた。
他にも同時多発ゲリラとして、米軍基地・民団愛知県本部・中村県税事務所に火炎瓶を投げ込んだり、名古屋簡易裁判所判事宅に投石を行ったりした。最終的に朝鮮人31名が検挙された。

 

奈良警察官宅襲撃事件 (1952年5月31日)
奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の朝鮮人が押しかけ、戸を開けた巡査部長の父に暴行を加え意識不明の重体にし、窓ガラスや障子を破壊して逃走した。

 

万来町事件 (1952年5月31日~6月5日)
山口県宇部市では、生活保護の適用をめぐって朝鮮人と対立していた。1952年5月31日以来、連日のように宇部市福祉事務所に押しかけていた。
6月3日には約400名が押しかけたので、宇部市警は全署員を非常招集し解散させたが、留守中の上宇部派出所が襲撃され、投石で窓ガラスが割られた。
6月5日になると、宇部市万来町にある「朝鮮人解放救援会山口県本部」が「民主愛国青年同盟」の結成式を催すことになり、県内各地から朝鮮人たちが集まってきた。その中の中核自衛団員70名が宇部興産窒素工場に乱入し、阻止しようとした守衛に暴行を加えた。その後、民団員宅を襲って傷害を与え、解放救援会山口県本部事務所に引き揚げた。
警察は犯人を逮捕するために解放救援会事務所を包囲し解散を呼びかけたが、彼らは投石をしたり、棒を振って警官隊に突入を図ったため、遂にガス弾を投入して鎮圧した。

 

島津三条工場事件 (1952年6月10日)
1952年6月10日、朝鮮人約50名が、京都市中京区にある島津三条工場に押しかけ、破防法反対のアジ演説を行ったので、工場側の要請を受けた警察官約15名が現場に急行、50代くらいの朝鮮人1名を検挙、京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。
同パトカーが春日通三条にさしかかった際、付近にいた朝鮮人約100名が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込み、乗っていた8名の警察官に重軽傷を負わせ、検挙者を逃走させた。

 

醒ヶ井村事件 (1952年6月13日)
警察は滋賀県坂田郡醒ヶ井村で、民団系朝鮮人を暴行して全治2ヶ月の重傷を負わせた事件で容疑者7名を逮捕するために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知してピケを張るなどして妨害したため大乱闘となり、公務執行妨害で40人、検挙予定の7名の内6名を逮捕した。

 

葺合・長田事件 (1952年6月24日)
6月24日に神戸市葺合区の東神小学校に約50名の朝鮮人が集まり、竹槍を持って無届デモを行ったので、2名を公安条例違反で検挙した。これに対して9時半ごろ、葺合警察署に約100名の朝鮮人児童が押しかけて投石したため、実力で排除したが、別の一団が乱入し乱闘となった。
一方、長田区では、朝鮮人約150名が神楽職業安定所に向かったので警官隊が追跡したところ、投石したため、デモ隊を包囲して11名を検挙した。

 

吹田・枚方事件 (1952年6月24日~25日)
6・25朝鮮戦争前夜祭として、待兼山に参集した民戦系学生等約1100名は、山中に竹槍を用意し、二隊に分かれて伊丹駐留軍宿舎を襲撃したが、警備体制に圧倒されて目標を変更し、一隊は吹田操車場に駐留軍貨車を物色したがこれも発見できなかったため、再び吹田駅に引き返す途中、警官隊と衝突し、拳銃2丁を奪い、さらに行進中交番2ヶ所および日本国粋党の笹川良一宅を火炎瓶・竹槍で襲撃した。そこへたまたま出会わした駐留軍司令官クラーク准将の自動車に火炎瓶を投げ込み、顔面に火傷を与えた。
また吹田駅周辺においても、デモ隊が停車中の米原発大阪行の通勤電車に飛び乗ってそこから拳銃を発砲したり、火炎瓶・竹槍などをもって抵抗したために、警察側も応戦し、両方に多数の負傷者を出した。
一方、朝鮮人を含む9人の遊撃隊は、枚方市の旧陸軍枚方工廠のポンプ室に侵入し、時限爆弾を仕掛けて爆破させた。
これに呼応して、翌日朝、同市の小松正義 宅に火炎瓶を投げ入れて放火しようとした。逃走途中に警官隊に発見され、激しく抵抗したため警官隊は発砲した。この事件での検挙者は113名であった。

 

新宿駅事件 (1952年6月25日)
国際平和デー閉会後、朝鮮人約3000名が新宿駅東口に到着し、駅玄関や駅前派出所に向かって火炎瓶を投げ込んで、窓ガラスや電線等を焼失させた。そのため、警官隊約600名が催涙ガスを使ってデモ隊を押し返した。また、デモ隊の一部は新宿駅7番線ホームに入って、そこにいたオーストラリア兵4名を取り囲み、殴打・暴行を加えた。

 

大須事件 (1952年7月7日)
大須球場で、ソ連・中国を訪問帰国した帆足計・宮越喜助両代議士の歓迎報告会終了後、日本共産党系の名古屋大学生に煽動された旧朝連系を含む約1000人が無届デモを敢行した。岩井通りをデモ行進しながら、警官隊に硫酸瓶・火炎瓶を投げ、警察放送車、民間乗用車を燃やしたり、交番詰所に火炎瓶を投げ込んだ。
そのため、遂に警官隊側が発砲する騒乱事件となった。夜になっても、騒乱の現場から少し離れた鶴舞公園で、駐留軍軍用車を焼いたり、名古屋東税務署に火炎瓶を投げ込んだ。その結果、デモ側は死亡1名、重軽傷者19名を出した。
名古屋地方検察庁及び名古屋市警察はこの事件を重視し、261名(その内朝連携145名)を検挙した。

 

舞鶴事件 (1952年7月8日)
6月25日、朝鮮人約180名が舞鶴飯野造船所に侵入しようとして、それを阻止しようとした所員に怪我を負わせた事件が発生した。
7月8日にその事件の容疑者が舞鶴から綾部に逃走しようとしているのを警察が察知し、先回りして逮捕しようとしたところ、竹槍等で抵抗したため警官が発砲するなど大乱闘となった。双方合わせて27名の重軽傷者を出し、12名を逮捕した。
同日午後5時ごろ、朝鮮人数十人が、棍棒、石、ノコギリを持ち「逮捕者を返せ」と舞鶴西署に押しかけ同署のガラス数十枚を破り、警官ともみあいになり、8名を逮捕した。

 

五所川原税務署襲撃事件 (1952年11月19日~26日)
1952年11月19日、仙台国税局は青森県内の警察官の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、証拠物件を押収し、酒税法違反として45名を検挙した。そのとき、激しく妨害したので、朝鮮人7名が公務執行妨害の現行犯で逮捕された。
これに対して朝鮮人は反発し、板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行い、26日には、約60名の朝鮮人が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署内を占拠した。

<https://ja.wikipedia.org/wiki/在日韓国・朝鮮人の事件年表>より上記他一部抜粋

 

二重橋爆弾事件 (1924年1月5日)
二重橋爆弾事件 (1924年)、金祉燮
二重橋爆弾事件(にじゅうばしばくだんじけん)とは、大正13年(1924年)1月5日に日本東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区)で発生した爆弾テロ事件。義烈団による犯行で、不敬事件の1つ。

大正13年(1924年)1月5日午後7時15分、宮城外苑(現・皇居前広場)を警邏中の警視庁日比谷警察署の岡本緊英巡査が、二重橋付近で小雨の降る闇の中で佇む男を発見した。「何者か!」と不審尋問をしたところ、男は無言でいきなり手榴弾を投げて逃走した。手榴弾は巡査に当たったものの小さな破裂音がしただけで不発であったため怪我は無かった。男はそのまま二重橋を目指して突進していった。

物音に気付いた皇居正門前の歩哨に立つ近衛兵2名、福井清と河原長次郎一等兵は、即座に銃剣を構えて立ちふさがり、男の侵入を阻止した。行く手を阻まれた男は、歩哨にも爆弾を2つ続けざまに投げつけたが、また2つとも起爆しなかった。このとき追いすがった岡本巡査が後ろから男に飛びつき、歩哨が前から組み付いて、4名の格闘の末に、力尽きた男は逮捕された。男はすぐに日比谷警察署に連行された。

手榴弾は精巧な作りであったが、一投目の不発の原因は点火栓が折れていたため、発火が装薬に達せずに爆発しなかったものであった。二投目と三投目の不発の原因は、焦った男が安全弁を外さずにそのまま投げたため、発火装置が作動していなかったからで、手榴弾そのものに異常はなかった。男は拳銃も所持していたが、これは用いられなかった。

男は初めは「どうせ俺は死刑だから、名前などは絶対に自白しない」と抵抗を続けていたが、特別高等警察の厳しい訊問(拷問)を受ける。その結果、朝鮮独立運動のテロ組織・上海義烈団のメンバーで、金祉燮(キム・ジソプ)であることが判明した。金祉燮は慶尚北道の出身であったが、裁判所書記官の前歴があって日本語が堪能であったことから、実行者に選ばれ、皇居前に侵入して門を爆破する計画を命じられていた。もしそれが不可能な場合には、帝国議会に侵入して傍聴席から爆弾を投擲して議員を殺傷するという第二の計画もあった。

 

桜田門事件 (1932年1月8日)
桜田門事件、事件現場(×の地点に爆弾が投擲された)
桜田門事件(さくらだもんじけん)は、昭和7年(1932年)1月8日に起きた昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件で、四事件ある大逆事件の一つ(最後)である。犯人は大韓民国臨時政府の抗日武装組織「韓人愛国団」に所属していた李奉昌で、天皇に危害を加えようとしたなどで大逆罪に問われ、死刑となった。李奉昌(イ・ボンチャン)大逆事件とも。

昭和7年1月8日、陸軍始観兵式のため、行幸が行われていた。午前11時44分頃、行幸の帰りに、皇居・桜田門の外、麹町区桜田町警視庁庁舎前に通りに差し掛かった行幸の列の馬車に対して、突然、奉拝者の線から沿道に飛び出した男が手榴弾を投げつけた。

狙われた馬車は第二両目の御料馬車で、宮内大臣一木喜徳郎が乗車するものであった。手榴弾は左後輪付近に落ちて炸裂し、馬車の底部に親指大の2、3の穴を開けたが、手榴弾は威力が小さく、馬車と隊列はそのまま進んで午前11時51分頃、皇居内に到着した。後に破片で、騎乗随伴していた近衛騎兵1人とその乗馬と馬車馬の馬2頭が負傷していたことがわかった。

桜田門事件、即座に取り押さえられた李奉昌

昭和天皇は第三両目の御料馬車に乗車しており、手榴弾はその32メートルも前方で炸裂。車内にあって音を聞いた程度だった。奈良武次武官長が陪乗していたが、天皇は極めて冷静沈着で、帰還後も事件について何ら言葉をかけることもなかったという。

桜田門事件、観兵式還御の鹵簿に手投弾を投ず : 畏くも天皇陛下御異状あらせられず : 大逆犯人は朝鮮人 (大阪朝日新聞)

襲撃者は一名で、警視石森勳夫、巡査本田恒義、山下宗平、憲兵河合上等兵、内田軍曹の五名によって即座に逮捕された。犯人は朝鮮京城生まれの李奉昌という人物で、朝鮮独立を目指す金九(キム・グ)が組織した抗日武装組織・韓人愛国団(大韓僑民団)から派遣された刺客であった。

 

上海天長節爆弾事件 (1932年4月29日)
上海天長節爆弾事件、事件直前の様子。(左から白川義則陸軍大将、河端貞次医師、重光葵上海公使、野村吉三郎海軍中将)
上海天長節爆弾事件(シャンハイてんちょうせつばくだんじけん)とは、第一次上海事変末期の1932年(昭和7年)4月29日に上海の虹口公園(現在の魯迅公園)で発生し、民間人死者が出た爆弾テロ事件。事件があった場所から虹口公園爆弾事件(ホンキューこうえんばくだんじけん)とも呼ばれる。

朝鮮半島からの日本による支配を駆逐する事を目的とする大韓民国臨時政府の内務総長・金九(キム・グ)は、第一次上海事変での格納庫や軍需倉庫の爆破による後方攪乱、本庄繁と内田康哉の暗殺計画などを策していたが、いずれも失敗に終わっていた。そんな中、この攻撃実行の恰好の機会に、自ら志願した尹奉吉(ユン・ボンギル)を攻撃の実行犯として差し向ける事にした。またこの攻撃計画には中華民国行政院代理院長(日本の内閣総理大臣代理に相当)であった陳銘樞などが、朝鮮人側の要人であった安昌浩に資金を提供し協力していた。これは当日の天長節の祝賀会場への入場を中国人は一切禁止されていたため、日本語が上手で日本人に見える実行犯を使うことにしたからである。

金九は、上海兵工廠の庫長と第19路軍情報局長を兼任していた金弘壹(中国名・王雄)に水筒型と弁当型の爆弾各1個の製造を依頼した。これは日本の新聞が水筒と弁当だけを持参して式に参列するように告知したからであった。金弘壹は、当時鍛冶屋で第19路軍後援会として兵器製造に携わっていた中国人技師の向佽濤と協力して爆弾の製作に取り組んだ。

先の1月に大韓民国臨時政府傘下の抗日武装組織韓人愛国団の団員であった李奉昌が、東京で昭和天皇を暗殺しようとしたが、爆弾の威力が弱く、失敗に終わっていた(詳細は桜田門事件を参照)。その教訓から、十数回の実験を繰り返し強力な爆弾を作り上げた。

上海天長節爆弾事件、太極旗の下で宣誓する尹奉吉

午前10時始まった式典は、午前11時40分ごろ天長節を祝賀するため、21発の礼砲が発射され、海軍軍楽隊の演奏で君が代が斉唱された。途中で雨が降ったため、群衆がざわつきはじめた。同時に式台の右後ろのラウドスピーカーの音がしなくなり、私服で警戒していた5~6人の軍人が修理しようと動いた。この瞬間に尹は群衆を抜け出し、水筒型の爆弾を式台に投げつけた。尹の目的は「植田謙吉、白川義則の両司令官の殺害」であったので、それ以外の人間を巻き込まないよう威力の大きい弁当型は使われなかった。

この爆発で、上海居留民団行政委員会会長の医師河端貞次が即死、第9師団長植田謙吉中将、第3艦隊司令長官野村吉三郎海軍中将、在上海公使重光葵、在上海総領事村井倉松、上海日本人居留民団書記長の友野盛が、それぞれ重傷を負った。重光公使は右脚を失い、野村中将は隻眼となった。白川大将は5月26日に死亡した。犯人の尹は、その場で自殺を図ろうとした所を上海海軍特別陸戦隊の後本兵曹により取り押さえられ、上海派遣軍憲兵隊により検挙、軍法会議を経て12月19日午前7時に金沢刑務所で銃殺刑となった

 

多摩川流域軍需品窃盗団事件 (1942年秋ごろから)
1941年12月8日の大東亜戦争勃発後に軍需品の製造が盛んになって以降、1942年秋ごろから多摩川流域の軍需品工場を荒しまわる組織的窃盗団が出没し始めた。被害にあった工場は数日間操業停止に追い込まれ、軍需品増産に悪影響を及ぼしていた。

警視総監の命により警視庁刑事部と被害地域を所轄する警察署では、専従の捜査員を置き、徹底的な捜査を行っていた。
1942年12月19日、東條英機首相宅に忍び込んだ窃盗事件が発生した。この事件で渋谷憲兵分隊は朝鮮人1人を検挙したが、連続窃盗事件とは無関係であった。

1943年5月中旬、東京府東京市(現東京都)世田谷区玉川等々力の朝鮮人宅に多数の朝鮮人が出入りしており、盗品らしきものを搬出入していることを突き止めた。その中には窃盗の常習犯も混じっていた。
5月25日、警視庁は玉川等々力の朝鮮人宅を急襲し、6人の朝鮮人を検挙した。その中に東條邸に忍び込んだ犯人の共犯がいた。その共犯は自分がやった窃盗事件数件を自白し、「自分の犯行はこれだけだ。工場荒しは他の者たちだ。自分はそれを知ってはいるが、その名は絶対に言えない。それを言うと自分は酷い目に遭わされる。」と供述し、それ以降は黙秘した。

そこで、この共犯の交友関係を調べたところ、遂に窃盗団の首謀者名を突き止めることができた。
6月11日、警視庁は首謀者を逮捕したが黙秘し続けた。しかし窃盗団の一人が自供を始めたため、遂に犯行の全容が明らかになった。最終的に104人が検挙された。
捜査の結果、窃盗338件、被害総額57万8000円にのぼる犯行が明らかになった。

 

七条警察署襲撃事件 (1946年1月24日)
1946年1月18日、京都府七条警察署は、ヤミ米買出しをしていた朝鮮人を物価統制令違反として現行犯逮捕した。連行途中、犯人は隙を見て逃走、在日本朝鮮人連盟の支部に逃げ込んだ。警察は引渡しを要求したが『警察!?我々は戦勝国民である。敗戦国の警察の言うことなど聞かない』という勝手な論理を振りかざし朝連側は拒否した。

1月24日、朝鮮人40人が七条警察署に押しかけ、署長に抗議した。また、終戦直後より朝鮮人と対立していた被差別部落出身の的屋・博徒は、「不良在日外国人、七条署に押しかける」の報に接し、急遽500人が警察の応援に駆けつけた。このとき的屋の側には、朝鮮人排除を助けることで警察に恩を売り、その見返りとして闇市で自分たちへの取締を手加減してもらおうという意図があったとされている。

そして、署長が朝鮮人に手錠をかけられようとしたとき、署員とともに的屋・博徒も署長室になだれ込み、朝鮮人を実力で排除した。
朝鮮人は反撃のために約700人を集結させ、他方、七条警察署サイドは図越組組長図越利一に応援を要請し図越は子分等を総動員して迎え撃つ準備を整え、そして七条警察署近くの京都駅前で的屋・博徒と大乱闘になった。
警察はMPの出動を要請し、MPが駆けつけたことで漸く沈静化した。

 

日光中宮祠事件 (1946年5月4日)
日光中宮祠事件(にっこうちゅうぐうしじけん)とは1946年(昭和21年)に発生した強盗放火事件である。当初警察は一家心中として処理したが、9年後の1955年に真相が明らかになった。なお事件名はこの事件を元に松本清張が執筆した小説及びテレビドラマの題名であり、現在ではこちらの事件名で呼ばれることが多い。

1946年5月4日未明、栃木県中禅寺湖畔の上都賀郡日光町(現在の日光市)中宮祠の旅館から出火し周囲を含めて6棟が全焼。旅館の焼け跡から経営者のH(当時46歳)と妻(同42歳)、Hの義父(同72歳)とHの三男(同11歳)、次女(同8歳)、三女(同5歳)の6人の焼死体が発見された。6人が寝床に入ったままの状態で死亡していたばかりか後頭部を切られた跡があるなど、他殺と思われる不審な点もあったにも関わらず、日光警察署は無理心中と結論づけて被疑者死亡として捜査を打ち切った。

しかし、事件の真相は当日投宿していた在日朝鮮人のAとBが帳場に盗みに入ったところを家族に発見されたため、旅館の台所にあった包丁で一家6人を刺殺、現金400円と小切手480円と背広などを奪い放火して逃亡したというものであった。

1955年5月に埼玉県で逮捕された犯人Cが、強盗31件、殺人5件を「自供」したが、これらはCが捜査員の歓心を買うことで取調べでの待遇が良くなると考えてのウソであった。この時に「自供」した事件の一つに中宮祠の一件があったため、Hの長男が埼玉県警察に再捜査を依頼していた。再捜査によりCは刑務所で知り合った男から聞いた話であること、盗まれた小切手が東京都内で払い戻されていたことが判明した。1956年7月30日に暴力団狩りで神奈川県の川崎警察署に逮捕されていたA(逮捕時30歳)が真犯人であったことが判明した。取調べにより共犯のB(逮捕時31歳)も判明し、Bは北海道の工事現場で働いているところを8月21日に逮捕された。

 

富山駅前派出所襲撃事件 (1946年8月5日)
1946年8月5日午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。
そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。
その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した。

 

一勝地村農家6人殺害事件 (1946年8月29日)
1946年8月29日夕方、一勝地村内の一軒家が燃えているという通報が警察に入った。翌朝に実況見分を行い、完全に白骨化した一家6人の焼死体を発見した。当初は失火による事故死と思われたが、頭蓋骨が陥没しているのを発見したことで、一転して放火殺人事件となり捜査を開始した。

周辺の聞き込み捜査を開始したところ、隣村の村長が「一昨日、被害者宅に梨を買いに行った者がいる」との情報を得て、警察はその人物を聴取した。その人物によると「被害者宅に梨を買いに行った時、被害者から『お宅の集落の朝鮮人も梨を買いに来たが、金が無いからと腕時計を置いていった』と言われた」と証言した。
そこで、その朝鮮人の家に行くと作業服が干してあり、それには血痕らしきものが付着していた。容疑が深まったため、家にいた朝鮮人2人を逮捕した。取り調べの結果、もう1人犯人がおり、近々朝鮮に帰る予定であることを自白した。熊本県警察部は、朝鮮語を話せる巡査に犯人の追跡を厳命し、犯人は佐賀県鳥栖市で逮捕された。

犯人3人は戦時中、九州北部の炭鉱で働いていたが、終戦となり帰国することになった。ところが帰国費用がなかったので強盗を計画し、金がありそうな被害者宅に「帰りが遅くなったので泊めてほしい」という名目で一泊することになった。ところが、被害者一家から親切なもてなしを受けたため、さすがに良心の呵責を感じたのか、この夜は犯行を決行できなかった。
翌日夜、前日のお礼ということで酒を携えて被害者宅に乗り込み、家人が寝静まったのを見計らって、家族6人を殺害した後、たんすの中から15800円を盗み、証拠隠滅のため、家に放火して逃走した。

 

神奈川税務署員殉職事件 (1947年6月23日)
神奈川税務署員殉職事件(かながわぜいむしょいんじゅんしょくじけん)とは、1947年(昭和22年)6月23日に神奈川県川崎市桜本町(現在の川崎市川崎区桜本)で発生した密造酒製造の取締りを発端とする在日朝鮮人による暴動と税務職員への襲撃、そしてそれによる職員の殉職事件である。

神奈川税務署員殉職事件、殉職税務署員の慰霊碑

太平洋戦争終戦後、極端な米不足のため、正規の酒の生産量が落ち込んでいた。その間隙を縫って「カストリ酒」なる密造酒が横行しはじめた。1947年(昭和22年)9月時点の密造酒生産量は50万2000キロリットルで、正規の酒の生産量34万3000キロリットルを大幅に上回っていた。
これは従来のように農家の自家消費用としての密造酒ではなく、販売を目的とする大掛かりな密造で在日朝鮮人集落が密造の巣窟であった。 終戦後の食糧難という時代背景もあり、単に酒税収入の激減のみならず、米が酒用に転用される分、主食用の米が減ってしまうので、飢餓が起こる可能性が高かった。またこれらの酒の品質も劣悪で、中には有害なメチルアルコールを薄めたものまであったため、税務当局は健康上の観点からも厳しく取締りを行った。

当時の在日朝鮮人は、行政府職員への脅迫により米の配給を二重三重に受けることによって密造酒を醸造して闇に流すなどしており、深刻な問題となっていた。これらを取り締まろうとする税務署に対しては大勢で押し掛け、取締を行わないよう要求するなど組織的な妨害活動を繰り広げていた。
事件の発端となった川崎市桜本町の在日朝鮮人集落では、公然と密造酒を製造していた。多発していた在日朝鮮人による暴動に治安上の問題や共産主義革命の危険を感じたGHQの指令もあり、税務当局は一斉捜査を実施することになった。

神奈川税務署員殉職事件、戦後初期に出回ったカストリ酒

1947年(昭和22年)6月23日、税務当局は税務署員88名と検事2名、警察官206名、占領軍憲兵の応援を得て、一斉取締りを敢行した。取締りそのものは順調に進み、100名以上を検挙し、密造酒15,000リットル、原料、醸造機材などの証拠物件を押収した。検挙の際には拉致されそうになる職員もあり、税務署が威嚇されることもあった。

当該事件の被害者となる端山豊蔵・神奈川税務署間税課長は、現場の責任者として陣頭指揮を執っていた。端山課長は、この日の取締りの事務処理を済ませて、午後9時に川崎税務署(現・川崎南税務署)を出た。京浜川崎駅(現・京急川崎駅)に到着しようとした時、賊数名が端山課長を取り囲み、「税務署員か?」と聞いたため、端山課長が「そうだ」と答えると、いきなり殴る蹴るのリンチを加えた。端山課長は直ちに病院に収容されたが、3日後に死亡した。後に犯人は逮捕され、傷害致死罪で懲役7年の実刑判決が下った。

同年7月4日、片山内閣は端山豊蔵間税課長殺害事件を受けて、閣議に「酒額密造摘発に関する態勢確定の件」を上程し、端山課長が殺された事件は、単なる密造事件としてではなく、日本政府の経済緊急対策の成否にかかる重大問題として扱うべきであるとし、今後は税務署が中心として行う酒税法違反の摘発とするだけでなく、食糧管理法違反等と合わせて関係官庁が協力することとする閣議決定がなされた。

同年7月5日、端山課長の葬儀が東京財務局(現・東京国税局)や全国財務労働組合の合同慰霊祭として行われ、栗栖赳夫・大蔵大臣、石橋湛山・前大蔵大臣、池田勇人・大蔵事務次官を始め数百人が参列した。
同年12月には特定事務の執行に当り当該財務局又は税務署に在勤する職員の生命又は身体に著しい危険を及ぼす虞があると認められる事例には税務特別手当を支給する「財務局及び税務署に在勤する政府職員に対する税務特別手当の支給に関する法律」が成立した。

1951年(昭和26年)6月26日、端山課長の命日に合わせて、東京国税局(東京都千代田区大手町)に殉職間税課長顕彰碑が建立された。顕彰碑の碑表は池田勇人・大蔵大臣の筆、碑誌は坂田泰二(阪田泰二)・東京国税局局長の筆による。
1965年(昭和40年)6月には、顕彰碑は殉職地の所轄である川崎南税務署に遷された。東京国税局では、毎年の端山課長の命日ごとに、慰霊祭が行われている。

 

浜松事件 (1948年4月)
浜松事件(はままつじけん)は、1948年(昭和23年)4月に静岡県浜松市で発生した抗争事件。“浜松大紛争”とも呼ばれた。
戦後、市内の国際マーケットは在日朝鮮人が押さえていたが、闇市は的屋の関東霊岸島桝屋一家分家(服部)が押さえていた。
県議会議員となった服部治助の跡を継いでいたのが「小野組」小野近義であった。
在日朝鮮人らは、在日本朝鮮人連盟の威光を背景に、地元の自治体警察であった浜松市警察の介入を許さず、禁制品を公然と売り捌いていた。
小野組の方は比較的合法な物品しか売っていなかったため、客足が奪われることになり、小野組は朝鮮人に反感をもっていた。
1948年3月には、浜松市警の巡査が賭博の現行犯で朝鮮人を逮捕しようとしたところ、返り討ちにあって負傷する事件が発生。
小野組は、その巡査を救出して近くの病院に収容、病院周辺を警護して朝鮮人の来襲を阻止するなど、一触即発の事態を迎えつつあった。

4月4日夕方、朝鮮人が小野組組長宅を襲撃したことで、朝鮮人・小野組・浜松市警の三つ巴の抗争が勃発した。小野組は直ちに報復すべく会合を開いたが、朝鮮人はその会合場所を襲い銃撃した。
浜松市警も抗争を鎮圧するために出動したが、朝鮮人は伝馬町交差点でこれを迎えうち、警察との間で銃撃戦となった。5日以降の数日間の戦闘で死者数人・負傷者約300人を出した。浜松市警は駐留軍岐阜軍政部に憲兵の出動を要請し、400人の兵士が浜松に派遣されたことで漸く沈静化した。
この事件により、朝鮮人への評判は地に堕ち、逆に小野組は浜松市民有志から50万円(当時)の見舞金が送られた。

 

ワ号事件 (連続窃盗事件) (1948年末頃より)
ワ号事件(わごうじけん)とは、1948年(昭和23年)末頃より東北地方を股に掛けた朝鮮人窃盗団による連続窃盗事件である。国家地方警察宮城県本部涌谷地区警察署が捜査したことから、涌谷(わくや)の「ワ」をとって名づけられた。

1948年末頃より、宮城県・岩手県・山形県の3県内で土蔵破りや店舗荒らしによる窃盗事件が多発していた。国家地方警察宮城県本部涌谷地区警察署は、管内の被害を機に捜査本部を設置した。
1949年5月7日、盗品の一部である腰巻の真綿を発見した。真綿には胡桃の葉と鋸屑が付着していた。また、近くに犯人が排泄したと思われる糞が発見された。糞を鑑定した結果、トウガラシを刻んだものが混じっていた。

これらの証拠から、「犯人は犯行前にトウガラシを食べており、近くに胡桃の木がある新築家屋に住んでいる」という仮説が浮かび上がってきた。この仮説に基づいて捜査を進めた結果、胡桃の木がある民家を発見し、最近増築された納屋に住み込んでいる朝鮮人夫婦がいることを突き止めた。そして、その妻が盗品の衣服を着用していたことが判明した。
9月13日警察はその夫を逮捕して取り調べた結果、構成員約60人に及ぶ窃盗団の存在が明らかになった。これ以降、芋づる式に窃盗団のメンバーが検挙されていった。
捜査は1950年2月10日まで続けられ、宮城県・岩手県・山形県・福島県の4県内で窃盗罪130件、贓物罪40件、横領罪2件、被害総額1000万円にのぼる犯行が明らかになった。

 

本郷事件 (1949年6月2日)
1949年6月2日、国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。
幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。

朝鮮人側は
暴行警察官の罷免
被害者に対する損害賠償
朝鮮人に対する謝罪
朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすること
などを要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。

その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた。

 

平事件 (1949年6月30日)
1949年4月13日、日本共産党福島県石城地区委員会は、平市警察(現在のいわき中央警察署)に、宣伝用の掲示板を設置するために道路一時使用許可申請を出した。
平市警察はこれを受理・許可したが、この掲示板は平市街地にあったため、予想外の人だかりができ、交通の障害となったため、許可の取り消しをしたところ、「政治運動に対する弾圧」として共産党が反発し、平市警察と対立するようになった。

1949年6月30日早朝より、共産党員や在日本朝鮮人連盟の朝鮮人を動員し、湯本町や内郷町(両町とも現在のいわき市)の自治体警察に押しかけて、平市警察に応援を出さないことを確約させた後、午後3時30分頃にトラックで平市警察署に押しかけた。
群集はインターナショナルを歌いながら気勢を上げて署内に乱入した。午後6時頃になると署長室だけでも80人が侵入するなど大混乱に陥った。侵入を阻止しようとする署員に対しては殴る蹴るの暴力を加え、署の窓ガラスを次々と割っていった。

群集の一団は留置場にも侵入し、先程逮捕され留置された者を奪還、逆に警察官を留置場に閉じ込めた。群集は公安委員会の招集と署長の辞職を要求した。
この間、署の玄関に赤旗を交差させて掲げ、「人民警察ができた」などと呼号したり、市内各所に検問所を設けて警戒に当たるなど無警察状態に陥った。
午後11時頃になって、近県より警察の応援部隊がやってくるという情報が入ったため、ようやく解散した。

 

関東朝鮮人強盗団事件 (第二次世界大戦終戦(1945年9月2日)直後より)
関東朝鮮人強盗団事件(かんとうちょうせんじんごうとうだんじけん)とは、第二次世界大戦終戦直後より関東地方を股に掛けた朝鮮人強盗団による連続強盗事件である。その内1件は強盗殺人も犯していた。
1949年9月13日、警視庁捜査第三課は、関東一帯を荒らしまわっていた十数人規模の朝鮮人強盗団の取調べをしていたところ、ある被疑者が背後にある200人規模の大強盗団の存在を自供し、発覚した。
同年12月1日、警視庁は「集団強窃盗特別捜査本部」を設置するとともに、東京都や神奈川県など55ヶ所を家宅捜索し、79人を検挙した。その後の捜査で、最終的に260人(朝鮮人215人、日本人45人)を検挙した。

捜査の結果、強盗殺人1件、強盗45件、窃盗861件の犯行が明るみに出た。
犯人は10人前後のグループを組んで、昼間は倉庫を物色し、深夜になるとトラックで現場に乗り込み、鍵を壊して倉庫内の物品を積み込んで引き揚げるというものであった。管理人などに発見された場合は、拳銃を発砲して脅したり、ロープで縛ったりするなどして監禁した。

 

大津地方検察庁襲撃事件 (1950年12月1日)
1950年12月1日午前10時30分頃、日本共産党地区委員や旧朝連の幹部ら3人が大津地方検察庁を訪れ、勾留されている同志の釈放を検事正に要求した。検事正がこの要求を拒否したところ、朝鮮人約100人が集まり検察庁内に侵入しようとした。大津地検は大津市警察に警察官の派遣を依頼、大津市警だけでは足りないため、国家地方警察にも救援を求めた。警察官到着後、検察庁は解散を命じ、実力で排除した。その際に2人を逮捕し、群集は一旦解散した。

この日の大津市は雨が降っており、職にアブれた日雇労働者は失業認定のために公共職業安定所に集まっていた。手続き終了後、日雇労働者は大津市役所経由で大津地方検察庁に集まってきた。
すると、先ほど解散した朝鮮人の群集が再結集して、日雇労働者の集団を巻き込むような形で、再度地検に突入してきた。日雇労働者は特に反抗的ではなかったが、朝鮮人は暴徒化し、警察官に襲いかかってきた。この事件で43人が逮捕された。
大津地方検察局を襲った集団には多数の女性、子供(朝日新聞では約150人中50人が子供としている)が含まれており、「女、子供を先頭にしてきたやり方は非常識」とする当時の検事正のコメントが残されている。

(1950年12月1日) – 京都市役所に約100人の朝鮮人(うち学童30人)が押しかける。市長室を占拠し「朝鮮人児童には朝鮮人の教育を与えよ」と要求、京都市警察の警官ともみ合いになり7人が不退去罪、公務執行妨害容疑で逮捕

 

神奈川朝鮮人学校事件 (1951年6月13日)
1951年(昭和26年)6月13日午前11時より、横浜市立青木小学校分校(現在の横浜朝鮮初級学校)で、神奈川県下の朝鮮人学校PTA主催の連合運動会が開かれた。
午後3時30分頃になり、警備をしていた横浜市警察の警察官に対して、「なぜ棍棒とピストルを持ってきたのか、場外に出てくれ」と騒ぎ始めた。そして、参加者の一人が警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして2時間近くも大乱闘となった。

その後、午後6時に一旦解散となったが、約500人が横浜市警察本部に殺到し、「吉田の犬を倒せ!」「検束者を釈放せよ!」と叫び気勢をあげた。
当時の横浜市警察本部は横浜駅東口にあり、ちょうどラッシュアワーの時間帯であったため、通勤通学客がごった返し大混乱に陥った。横浜市警は約1000人の警察官を動員し、午後8時までに解散させた。その際に公安条例違反容疑で28人を検挙した。

(1951年7月20日) – 町田警察署乱入。容疑者の釈放を求めて約150人が町田署内へ乱入した。警察官7人が負傷。

 

広島地裁被疑者奪回事件 (1952年5月13日)
1952年5月13日午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。

勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。

広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった。

 

山口県教育長発言への朝鮮学校抗議 下関市長が「非常識」
ソース:朝日新聞山口県東部版 7月8日 朝刊より
下関市の嶋倉剛教育長が日本の朝鮮半島に対する植民地支配について「植民地支配は歴史的事実に反する」 と発言した問題で、山口朝鮮学園の人たちが市役所で発言に抗議する活動をしていることについて、江島潔市長は7日の定例記者会見で、「迷惑なのでいい加減にしてほしい」 と述べ、嶋倉教育長には発言の撤回や謝罪を指示しない意向を改めて示した。
会見で江島市長は、今月3日から続く学園側の抗議について 「大人数で来ることは想定しておらず非常識。数の力に屈することはありません」 と述べ、嶋倉教育長に対しては 「慎重に発言するよう口頭注意している。これ以上マスコミに出るような場を積極的につくりたくない」 と話した。

学園側は6月26日の教育長の発言を受け、3日に同学園が運営する山口朝鮮初中級学校の関係者約70人が撤回と謝罪を求める申入書を市教育委と市に提出。4日には回答を受け取るため約30人が訪れたが教育長側は面会を拒否した。 この後も学校関係者らは市役所を訪れ、教育長との面会を求めるなどしている。
嶋倉教育長の発言を巡っては、堀内隆治・前下関市立大学長らが、発言の撤回を求める申入書を提出。民主党県連も発言撤回と謝罪を求める決議を採択した。
7日は社民党県連合代表の佐々木明美県議も市役所を訪れ、市長と教育長あてに発言の撤回と教育長の辞任を求める申入書を提出した。市民らからは賛否両論が寄せられ、反響が続いている。

 

不逞鮮人に立ち向かう強い心が日本人には必要!
山口県下関市には九年ほど前に不逞鮮人七十名が大挙して押し寄せ、市役所を不法占拠した場所です。当時の教育長が「(補助金減額問題に自分たちは無理やり日本に連れてこられた特別な存在だと怒る鮮人に対し)併合問題は関係がない」「そもそも併合期に強制連行などしていない」と当然至極の発言をしたことに、朝鮮学校の校長が怒って総連にご注進。その指示で七十名の不逞鮮人(日給1,000円・・・実話です)が市役所に押しかけたのですが、誰一人逮捕されることがありませんでした。そのため、当時在特会の会長だった桜井が山口支部に指示を出して、安倍晋三事務所(当時は第一次安倍内閣崩壊後)に連絡をして、事の経緯を説明し何とかするようにお願いをしたところ、自称保守の安倍事務所からは無しのつぶてだったため、不逞鮮人を蹴散らすつもりで直接下関市役所に乗り込んだところ、不逞鮮人全員が逃げ去ったという思い出深い場所です。

かくの如く、不逞鮮人はこちらが本気で立ち向かえば、あっという間に蜘蛛の子散らすように逃げ去ります。当然のことであり、いかに在日人口が多かろうと、帰化した人間も含めて鮮人、鮮人系の人間は日本に百万人程度しかいません。一億二千万vs百万、本気で喧嘩をしたらどちらが勝つか、火を見るより明らかなのです。不逞鮮人の横暴に立ち向かう勇気を十年の活動の中で、桜井は皆さんに示してきました。大東亜戦争以降、牙を抜かれた日本人、そして日本社会の弱体化に付け込まれる形で鮮人の横暴を許してきたのは、日本人の責任だと思います。私たちの子供、孫の世代まで、この問題を引き継がせないためにも、日本人は心強く有らねばならないと思うのです。

 

朝鮮人の生活保護率が日本人の10倍だった理由
日本人なみに引下げ 厚生省で研究 朝鮮人への生活保護
朝鮮人の生活保護 朝日新聞1956年4月15日記事(1)
朝鮮人の生活保護 朝日新聞1956年4月15日記事(2)

 

「在日特権」という不幸(国際派日本人養成講座)
東アジア歴史文化研究会
在日がどのように生活保護や住民税半減という特権を獲得していったかについては、いくつかの事件から推測できる。

・長田区役所襲撃事件(1950年11月20日〜27日)
生活保護などを要求する約200人の朝鮮人が区役所に乱入し、警官隊と乱闘。約900人の朝鮮人が朝鮮学校に武装して終結し、警官隊と衝突。

・下里村役場事件(1951年10月22日)
兵庫県河西郡の下里村役場に押しかけた約200人の在日が生活保護などを要求し、職員を取り囲んで集団暴行を加えた。

・半田・一宮事件(1951年12月3日〜11日)
愛知県の半田税務署に朝鮮人集団が乱入し税務署長らを監禁。半田市役所、名古屋市港区役所、一宮税務署、名古屋市役所なども襲撃を受けた。

 

この時期に在日韓国・朝鮮人の生活保護受給者は激増している。厚生省社会局の発表では、1951年の6万2千余人が、1955年には13万9千人弱となり、在日の4人に一人が生活保護を受給していた事になる。その後の調査で不正受給していた在日が大勢いたことも発覚している。次のように総括している。

「在日は暴力的手段、あるいは「強制連行の被害者」「差別をやめろ」などと恫喝して、職員に圧力をかけて日本各地で生活保護を認めさせていったのだ。実際に在日に監禁されたり、暴行されて重傷を負った職員が何人も存在しているのだから、全国の生活保護担当の職員などは在日が来ただけで恐怖に震えてしまったろう。」

こうした暴力行為は現在も尾を引いてる。平成20(2008)年には山口県の下関市役所で、朝鮮学校への補助金削減に抗議する約60人の在日集団が乱入し、市役所施設の一部を占拠するという事件が発生している。

在日朝鮮人の生活保護率 美味しんぼ、海原雄山

 

竹島漁民を拉致。拷問を受け、顔と体を焼かれた日本人漁師 (第三興洋丸の乗組員)

竹島強奪!当時の記録
1952年2月4日、福岡県北湊町の大邦漁業株式会社所属の漁船、第一大邦丸と第二大邦丸(それぞれ乗組員22名)は、済州島に近い公海上に設定された284農林漁区で操業していた。

午前7時ごろ、韓国漁船第一昌運号・第二昌運号が接近してきて、友好的な態度をよそおい、「魚はとれますか?」などと日本語で話し掛けてきた。 韓国漁船は大邦丸からいったん離れ、操業をはじめたという。
ところが、この漁船には武装した韓国の憲兵を含む7~8人が潜んでおり、漁船に偽装した武装船だった。
第一大邦丸が網揚げ作業をはじめたとき、およそ30mの距離から無警告で、韓国漁船に潜んでいた憲兵が”自動小銃で日本漁船を攻撃”しはじめた。

不意をつかれた日本漁船は攻撃を回避しようと船を走らせたが、韓国武装船のしつような追跡と銃撃を受け、このときに第一大邦丸の漁労長・瀬戸重次郎さん(当時34歳)の後頭部に銃弾が命中、意識不明の重体となった。
これによって二隻の日本漁船は、韓国武装船に拉致された。
日本漁船は済州島・翰林に連行、金目のものは韓国警察に略奪された。
日本人漁師たちは韓国警察に、頭部に重傷を負った瀬戸さんのすみやかな治療を懇願したが、韓国側は瀬戸さんを一の”開業医”に預けただけだった。

そこは病室はおろか治療に必要な設備が何一つないところで、日本人漁師たちは、医療設備が整った韓国軍の病院で瀬戸さんが治療を受けられるようにしてくれと抗議したが、何度も拒否された。
それでも食い下がって何とか入院の承諾を得たが、瀬戸さんは放置されたままだった。日本人漁師たちは、瀬戸さんの生命維持のためリンゲル注射をしてくれるよう頼んだが、韓国人医師に「リンゲルは高価だから」と冷たく言われ拒否された。
日本人漁師たちが、自分たちの所持品を売って現金を払うという約束をして、ようやく瀬戸さんは注射をうってもらえた。

ところが韓国側の約束はウソだった。
「救急車よ早くきてくれ」という日本人漁師たちの願いも空しく、瀬戸さんはそれから2日間も放置されたままだった。
瀬戸さんは2月6日23時ごろ亡くなった。すぐに解剖が行われ、瀬戸さんの死因は韓国憲兵の発射した銃弾が頭部に命中したことであることが判明した。
日本人漁師たちは、韓国側に瀬戸さんの葬儀を願い出たが無視され、漁師たちが数少ない私物をお金にかえて薪を買い、それで火葬が行われた。

一方、後に残された日本人漁師たちは、韓国側に拉致され”取り調べ”を受けている最中、全く食事を与えられないという虐待を受けた。
これは明確な国際条約違反である。
そこで漁師たちは、韓国側の略奪を免れ漁船に備蓄してあった食料を分け合って、命をつないでいた。
また取り調べにおいても、脅迫によって無理やり「自分たちは韓国領海を侵犯しました」という内容の調書へ署名させられた。
日本政府は抗議したが、韓国の李承晩政権は「大邦丸はわが国の領海と”李承晩ライン”を侵犯した」と言い張った。

ところが海図など取り調べ調書がデタラメであったことが判明、在日米軍のグリッチ少将が事件解決に乗り出し李承晩大統領と会見、李承晩は韓国憲兵隊が日本漁船を公海上で拉致したことについて遺憾の意を表明した。
これによって日本人漁民と漁船の返還が決定され、2月15日に済州島を出発、アメリカ軍のフリゲート艦に付き添われてようやく帰国した。
日本人漁師たちは韓国を出航するとき、ずうずうしくも韓国側から「日本に帰っても韓国悪口を言わないでくれ」と言われたという。
これが第一大邦丸事件である。

1965年までに、韓国側の蛮行によって負傷した日本人は、射殺された日本人漁師の瀬戸さんを含め44人、拉致被害者は3929人、拿捕された漁船は328隻に及ぶ。

このときの人質によって、日韓協定が韓国側に有利に締結されたことは有名である。

韓国は侵略国 日本人虐殺・拉致事件 (竹島)
(李承晩ラインの問題を解決するにあたり、日本政府は韓国政府の要求に応じて、日本人抑留者の返還と引き換えに、常習的犯罪者あるいは重大犯罪者として収監されていた在日韓国・朝鮮人472人を放免し、在留特別許可を与えたのである。これが在留特別許可の原点。)

 

 

韓国は侵略国 日本人虐殺・拉致事件  竹島の真実。
日本固有の領土 島根県竹島を、武力をもって虐殺・拉致を繰り返し奪い取った証拠がここにあります。
第一大邦丸事件  第二大邦丸事件。
メディアが全力で隠すこの話を拡散して、韓国がいかに残虐な民族なのかを知らせましょう。

韓国の残虐な過去【朝鮮進駐軍】【ベトナム戦争での韓国軍】【済州島四・三事件】【保導連盟事件】【光州事件】

それぞれ検索して知ってください。
(9条があっても竹島が奪われた。自衛隊はまだなかった)

 

DHC吉田会長「日本には驚くほどの数の在日がいる。
似非日本人は、母国へ帰れ」。戦勝国と称した在日朝鮮人(敗戦利得者)、戦勝国民としての朝鮮進駐軍。戦後、朝鮮人がやっていたこと「山口組三代目 田岡一雄自伝」。入管特例法という在日特権(滞在資格が世襲制)吉田茂がマッカーサーに宛てた「在日朝鮮人に対する措置」文書
戦勝国民と称した朝鮮人、日本人を殴る、暴行も当たり前、集団で襲われ瀕死の重傷を負う者も

 

検索 吉田茂がマッカーサーに宛てた「在日朝鮮人に対する措置」文書
時の首相・吉田茂がマッカーサーに宛てた「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)

朝鮮人居住者の問題に関しては、早急に解決をはからなければなりません。
彼らは総数100万にちかく、その半数は不法入国であります。
私としては、これらすべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待するものであります。

その理由は次の通りであります。

(1)現在および将来の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能であります。
米国の好意により、日本は大量の食糧を輸入しており、その一部を在日朝鮮人を養うために使用しております。
このような輸入は、将来の世代に負担を課すことになります。
朝鮮人のために負っている対米負債のこの部分を、将来の世代に負わせることは不公平であると思われます。

(2)大多数の朝鮮人は、日本経済の復興に全く貢献しておりません。

(3)さらに悪いことには、朝鮮人の中で犯罪分子が大きな割合を占めております。
彼らは、日本の経済法令の常習的違反者であります。
彼らの多くは共産主義者ならびにそのシンパで、
最も悪辣な政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態であります。
戦後の朝鮮人による起訴犯罪事件数は次の通りです

[1948年5月末までで、9万1235名の朝鮮人が犯罪に関与したという数字をあげている]

さて、朝鮮人の本国送還に関する私の見解は次の通りであります。
(1)原則として、すべての朝鮮人を日本政府の費用で本国に送還すべきである。
(2)日本への残留を希望する朝鮮人は、日本政府の許可を受けなければならない。
許可は日本の経済復興に貢献する能力を有すると思われる朝鮮人に与えられる。

上述のような見解を、原則的に閣下がご承認くださるならば、
私は、朝鮮人の本国帰還に関する予算並びに他の具体的措置を提出するものであります。
敬具 吉田 茂

 

●在日が恐れる事
④日本の凶悪犯罪の大半が在日の犯行だとバレる事
⑤日本人が永遠に在日の危険性を叫び続ける事

 

●日本には「3種類の朝鮮人」がいる

(1)在日(ザイニチ)朝鮮人
(9割が通名(偽名)、戦後、朝鮮人犯罪のニュースがない日はなく、朝鮮人=犯罪者であり、朝鮮人であることを隠す為に通名(4千ほどある)を使うようになった。過去の凶悪犯罪もほとんどが在日(犯罪犯しても祖国に強制送還されない)だが、国籍を報道せず通名報道ばかり。海外で犯罪を犯してもなぜか日本に強制送還。入管ゲートもなぜか日本人と同じ。刑務所でも希望者は通名)

(2)帰化朝鮮人
(反日で帰化し民団に出入りする者も多数(所属する25%は帰化した朝鮮系日本人)。ほとんどが通名で帰化(33万~)。密航犯罪者とその子孫なのに、なぜか帰化するのも他外国人と比べて優遇(親族に犯罪者がいてもOKなど)されている在日特権。帰化人の凶悪犯罪も多く、神社油撒きテロ犯も帰化朝鮮人)

(3)背乗り(はいのり)朝鮮人
(被差別部落(同和)に多く背乗り(ハシシタなど)入り婿や戸籍の売買、一家乗っ取りなどによるなりすまし同和、いまだ差別あるというエセ同和はほとんどが朝鮮人の背乗りでヤクザも多い、広島長崎の原爆や空襲などで焼け野原になった地域で背乗りが多く発生、戦後の闇市で戸籍売買、日本人を拉致しその日本人に背乗り、吉田清治や尼崎事件など(←検索)戸籍乗っ取りによる日本人なりすまし)
ヤクザで同和で在日で創価なんてのは珍しくない。山口組の貯金箱だった同和建設協会 表は「同和」、裏は「暴力団」、差別は金になる、人権ヤクザです。差別が利権、金になるのであれば、アイヌにだってなりすまし、ザイヌになるのが朝鮮人

 

元公安調査庁の菅沼光弘氏曰く
「日本の裏社会の構成要素として「ヤクザ・同和・在日」の3つを挙げ、ヤクザの6割が同和関係者、ヤクザの3割が在日韓国朝鮮人」

通名はじめ様々な在日特権、入管特例法(特永)の廃止。
朝鮮人を半島へ強制送還することが日本の為。
日本人にとって朝鮮人は敵性民族

戦後日本に密入国した朝鮮人5万~20万人とも 朝日新聞

脅しスカしの手 アイクチと十万円、不法入国朝鮮人にニセの登録書が出されたほか全国で約五万名に上る二重登録が行われてしまった。

密航朝鮮人二百名に不正登録証配る、元区役所員ら22名逮捕

『余命三年時事日記』(在日韓国・朝鮮人の正体 そもそも「在日(特別永住資格)」とは何か、「強制連行被害者」を詐称、「被害者」として優遇措置を要求、在日による略奪・暴行・虐殺、「戦勝国民」から「強制連行被害者」に、次は「ヘイトスピーチの被害者」か、「在日特権」とは何なのか、日本人に成りすます在日(通名)、在日のマスコミ浸透工作)
『余命三年時事日記』

在日による略奪・暴行・虐殺(強制連行の嘘、戦勝国民、朝鮮人による土地占拠)
『余命三年時事日記ハンドブック』 第1章 在日韓国・朝鮮人の正体 在日による略奪・暴行・虐殺(強制連行の嘘、戦勝国民)

『余命三年時事日記ハンドブック』 第1章 在日韓国・朝鮮人の正体 (朝鮮人が起こした凶悪事件、闇米、神奈川税務署員殉職事件)

『余命三年時事日記ハンドブック』 第1章 在日韓国・朝鮮人の正体 (朝鮮人が起こした凶悪事件、阪神教育事件、生活保護)

『余命三年時事日記ハンドブック』 第1章 在日韓国・朝鮮人の正体 (朝鮮人が起こした凶悪事件、第三国人)

「戦勝国民」から「強制連行被害者」に
『余命三年時事日記ハンドブック』 第1章 在日韓国・朝鮮人の正体 「戦勝国民」から「強制連行被害者」に(朝鮮人による土地占拠)

『嫌韓流 実践ハンドブック 反日妄言撃退マニュアル 桜井誠』『ザ・在日特権 野村旗守』『マンガ嫌韓流の真実! 大月隆寛』(在日特権とは何を指すのか?現代史の闇!朝鮮人タブーのルーツ、第三国人(日本人は四等国民!?戦後の闇市を制した自称「戦勝国民」たち、朝鮮進駐軍、「朝鮮人は怖い」というイメージのルーツ、三国人特権))
『嫌韓流 実践ハンドブック 反日妄言撃退マニュアル 桜井誠』 「朝鮮人を日本本土へ強制連行した」⇒「日本への渡航を誰より望んだのは朝鮮人自身だ!」

『嫌韓流 実践ハンドブック 反日妄言撃退マニュアル 桜井誠』 「在日一世は強制連行の被害者だ」⇒「在日は不法入国や自己都合で渡日し、居座っているだけ」

『嫌韓流 実践ハンドブック 反日妄言撃退マニュアル 桜井誠』 「在日犯罪者の本名報道は差別だ」⇒「通名によって隠蔽されている在日犯罪の実態」

『嫌韓流 実践ハンドブック 反日妄言撃退マニュアル 桜井誠』 「在日は特権が与えられて当然だ」⇒「日本社会にとって在日特権の即時廃止が急務だ」

『嫌韓流 実践ハンドブック 反日妄言撃退マニュアル 桜井誠』 「在日に「祖国へ帰れ」と言うのは妄言」⇒「在日は、実際には勝手に居座る外国人にすぎない」

『朝日新聞』が「在日は半島へ帰れ!」(かつては三国人を無法者として報道している)数十万の異民族(在日朝鮮人)がどっかと腰をおろして、業を煮やして送還しても小船に乗って舞い戻るという始末で

『昭和35年版 犯罪白書 外国人とくに朝鮮人の犯罪率』『日本における在日定住外国人による犯罪…国籍別、犯罪種別の人口あたり犯罪検挙率(平成18年)』(在日韓国・朝鮮人による犯罪、とくに凶悪犯罪率の高さ) 通名報道と在日韓国・朝鮮人犯罪者(強姦)
昭和35年版 犯罪白書 第一編/第二章/五/3
3 外国人とくに朝鮮人の犯罪率
I-64表 主要罪名別・国籍別新受刑者数とその率(昭和33年)
昭和35年版 犯罪白書 第一編/第二章/五/3 、3 外国人とくに朝鮮人の犯罪率、I-64表 主要罪名別・国籍別新受刑者数とその率(昭和33年)

日本における在日定住外国人による犯罪…国籍別、犯罪種別の人口あたり犯罪検挙率(平成18)、…外国人全体・韓国朝鮮人・韓国朝鮮人以外の外国人比較

日本における在日定住外国人による犯罪…国籍別、犯罪種別の人口あたり犯罪検挙率(平成18)、在日外国人の犯罪率の日本人との比較(日本人を1とした場合)

通名は犯罪に便利ニダ、犯罪の温床、通名が無くなりますように、通名報道をやめて

『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった 水間政憲』(「強制連行」どころか、密航までして日本を目指した朝鮮人)
『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった 水間政憲』
『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった 水間政憲』
戦後混乱期に大量の密航者が押し寄せ、日本当局が「戦前からいた」のウソを信じた体裁をとり、居住を認めた者が相当部分

『韓国人は何処から来たか 長浜浩明』 韓国人は「短頭・高顔・蒙古ヒダ・扁平顔」が特徴、DNAが明かす韓国人のルーツ、歴史と言語ルーツは密接な関係がある、新羅・百済は日本の臣民だった、歴史から学ぶ韓国人の女性蔑視と蛮習、韓民族――昔から女性は献上品だった、韓国人の実像・なぜ美容整形するのか、韓国人の人格障害・遺伝子・食品は大丈夫か
韓国人は何処から来たか 長浜浩明
『韓国人は何処から来たか 長浜浩明』
内容
正史を読めば韓国人のルーツがわかる。族譜は100%デタラメ!はびこる近親婚に近親相姦。祖先は「庶子とクマ女の雑種」これが韓民族の正体だ!目からウロコの謎とき韓国史。

はじめに
「この朝鮮人はいずれの地より来たりしか。半島の原住民なりや、後住民なりやは容易に決し難き問題なり」『朝鮮史の栞』(大正九年)
戦前の朝鮮学の泰斗・今西龍博士の言葉

ネットで歴代大統領の顔を見れば分かる通り、全員が蒙古ヒダを持つ一重まぶたで、極めて細くて小さい目をしています。これが男女を問わず韓国人の一般的な「蒙古ヒダの目」なのです

竹林はるか遠く 日本人ヨーコの戦争体験記。ここでも描かれているのは暴徒となった朝鮮人とソ連兵。
ここでも描かれているのは暴徒となった朝鮮人とソ連兵。

朝鮮人の子は二日市保養所の桜の下に葬られた
韓国が桜の起源を主張していますが、二日市保養所の桜の木の下には日本人女性が朝鮮人にレイプされてできた子どもが葬られているそうです。
日本終戦と同時に中国大陸と朝鮮半島では日本人に対するヘイトが行われ、多くの日本人女性たちもその被害者となりました。
朝鮮人、中国人、ソ連人に強姦された女性たちは、引揚げ船が博多に到着すると上陸前に堕胎手術の案内がなされ、二日市保養所で麻酔なしの手術を受けました。
被害女性たちの年齢は15、6歳から50歳までにわたり、日本人女性が手当たり次第に暴行されていた様子がうかがわれます。
そして、堕胎児は二日市保養所の桜の木の下に葬られたそうです。

※二日市保養所(ふつかいちほようじょ)は、福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)にあった厚生省引揚援護庁の医療施設。ここでは、レイプ被害に遭った日本人女性(引揚者)に堕胎手術や性病の治療を行った。

『通州事件の真実 昭和十二年夏の邦人虐殺 加藤康男』『八月十五日からの戦争「通化事件」日本人が知らない満洲国の悲劇 加藤康男』
『八月十五日からの戦争「通化事件」日本人が知らない満洲国の悲劇 加藤康男』
『八月十五日からの戦争「通化事件」日本人が知らない満洲国の悲劇 加藤康男』

第一部 7章 三千人虐殺地獄の真相
ジェノサイド(八路軍側は抗戦派を一掃することに成功したが、戦闘部隊の前衛として想像を絶する残虐性を発揮したのが、朝鮮人人民義勇軍を名乗る李紅光(りこうこう)部隊である。その李紅光部隊による日本人への報復は、早いところでは午前七時頃に始まった。「日本人は、全部表へ出ろ!」)
『八月十五日からの戦争「通化事件」日本人が知らない満洲国の悲劇 加藤康男』三千人虐殺地獄の真相 ジェノサイド(八路軍側は抗戦派を一掃することに成功したが、戦闘部隊の前衛として想像を絶する残虐性を発揮し

【鏡音レン】帰れ!帰れ!朝鮮人は帰れ!【替え歌】 強制連行されたって言うくせに帰ろうとはしない 名前奪われたと言いながら通名使い分け 慰安婦にされたというけれどホントは募集だし 差別されてる~とか言って実は特権だらけ

Posted by nottorisosi